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ー時が止まった街と、進んでいく人々。ーフクシマ双葉の今を見て

先日、私用で福島県に行ってきました。

福島県の現状を少し垣間見ることが出来たので、今日はそれをシェアしながら、私たちの今と未来について考えてみたいと思います。

2011年、3月11日 14:46

13年前、ここ福島を含む東北地方は、マグニチュード9.0という大きな地震と巨大な津波に飲まれ、街中が瓦礫と化し、その被害は甚大なものでした。

当時わたしは東京近辺の学校に通っていて、卒業式の練習のために体育館にいました。

こちらの方でも感じる巨大な揺れにより、体育館の大きな照明は大きくグラグラとゆれ、今にも落ちてきそうでした。大きな音と長時間の振動におおきな恐怖を感じました。

その数日前には、ニュージーランドでも大きな地震が発生しており、それは街に甚大な被害をもたらしていましたが、私たちはその出来事をどこか他人事のように思っていたのでしょう、

「ジェットコースターみたい!たのしい!」
という同級生たちの声を聞いて、深い悲しさと怒りに耐えきれなくなった私は、体育館でわんわん泣いた記憶があります。

時間と場所を超えて、現場のひとの気持ちやNZで被害を受けた方々の気持ちがリンクしていたのだと思います。

その地震はみなさんもご存知のように、「東日本大震災」という名前がつきました。

日本観測史上最大規模の地震でした。

更に、原子力発電所の原子炉が水素爆発を起こし、近隣の住民は避難生活を余儀なくされました。今も尚、帰れない人々がたくさんいます。

無害の福島県産の農作物への風評被害も起こりました。

その年には、私の住む地域も含め「計画停電」が起こり、夜にはキャンドル生活🕯をする日々がありました。

それから3年後、岩手
13年後、福島。

その3年後、2014年の夏に私は奇しくも岩手県へ行くことになりました。

東日本大震災と明治三陸大津波を掛け合わせた舞台を行うことになり、現地へ視察と勉強をしに行ったのです

家々が流されたまっさらな平野と、倒壊した建物を実際に見て、わたしは何も分かっていなかった、と感じました。

《風化させない》

そんな想いで、当時の状況をボランティアとして語り継ぐ人たちや、瓦礫の撤去作業、復興活動をするたくさんの人たちと共に、

私たちもその想いをただ胸に抱き、
芝居を上演しました。

そして今年、東日本大震災から13年が経った2024年に、わたしは実際に福島第一原発の方へ立ち寄りました。

ニュース番組でよく報道されていた「夜の森の桜並木」

2024年、町はあのころの面影を色濃く落としていた

桜並木はしっかりずっしり立ち並んでいたものの、

周囲の家々には人が住んでいる気配もなく、

未だにガラスが割れたままの建物もありました。

人がいない
街が生きていない

けれど桜は毎年花を咲かせ、信号機は丁寧に赤と青のライトを繰り返していました。

がらんどうの街の上にはスカッと抜けるような青空が広がっており、

目の前を何度か工事のトラックが通り過ぎていきました。

いいようのない気持ちが胸の中で広がっていきました。

原子力発電所のほうへ歩みを進めていくと、

道の至る所に「この先、帰宅困難区域のため立ち入り禁止」の看板と交通警備のひとたちがたくさん立っていました。

原発の方へ向かう道は全て、封鎖されており、いたるところに旗や看板がたてられていました。

この先大熊町への通り抜けはできませんの看板
除染作業中と書かれた旗

空っぽの町に走る沢山のダンプカーやトラック。

13年経った今も、復興は終わっていないのだ、と感じました。

昼間の明るさに比例して、真っ暗のお店の数々

割れたままの窓ガラス

ドアが外れたままの家

本殿が流されたままの神社

そこで復興作業のため働く数々のひとたち

気が遠くなるような作業に従事している人がいて、

忘れられないあの日の体験をきっと毎日思い出している人がいる。

新宿の喧騒が虚しく思える

震災はまだ終わっていないのだ、長年かけて取り組む問題なのだ、と改めて気付かされました。

あの日、確かに津波が起き、原発事故があったことが、街中を見ると痛いほど分かりました。

海の方は、がらんとした平野が広がっていました。

震災遺構 請戸小学校 と書かれた看板

東日本大震災・電子力災害伝承館を訪れると、
そこには生々しい記録と、リアルな当時と今がありました。

そこで印象的だったことは、
避難生活を余儀なくされた方々の半数以上が帰らないことを決断していること

その理由は「生活施設や病院などが再開されていないため」そして「既に生活基盤があるため」。

何万もあった人口が200人程度の規模になっている

建物の復興だけでなく、健康や心理的な長期的ケアも必要であり、震災は「過去」のものではないということが痛いほどよくわかりました。

岩手県 陸前高田の当時と今

未来へと繋ぐ人たち。受け取っている人たち。

けれど、福島県民の方々の想いは確実に次世代へと受け継がれていました。

震災を覚えていない子ども達にもその教訓がしっかりと届いていることをしみじみと感じました。

確かな想い、願い、記憶、決心が子どもたちの中にあることを感じさせられる場面が多くあったのです。

その中のひとつに、福島の中学生の子たちが書いた作文があります。

「風評被害をなくしたい」

「生き残れたことが奇跡」

「この命を守っていきたい」

「0歳の私を母が守ってくれた」

…そんな言葉の数々がありました。

自ら東日本大震災や原発について調べ学習をする子どもたちの姿もありました。

何を見るのか、選択するのか、どう動くのか。

たいせつなものは何なのか

守りたいものは何なのか

今一度見直す必要がありそうです。

形は違えど、行動は違えど、

だれか・なにかのために力になりたい

という思いが私たち一人ひとりにはあります

私たちは、そのようにして社会を育み、繋がっているからです。

そして、その思いがはじまるところは

現状を知ること・自分を知ることから。

この世界にはいま、色々なものが溢れかえっています

何を選択するのか

何を指針にするのか

何を見るのか

決めるのは自分です

疑問を持ったらみてみること
しらべてみること
感じてみること

それは全てに言えることであり、あなたの大切なこれからの軸になります。

元旦に発生した「能登半島地震」。

課題も悲しみも交差している現状があります

しかし、日本の再生力は目を見張るものがあります。

悲惨な状況の中でも、各々に蘇生する力があるということ。

課題から目をそらさず、
現状を見つめ、
知ろうとすることにより、
人と繋がり、育んでいくこと。

そのようにして私たちは問題から社会を・各々を再生してきたということ。

1945年、8月に長崎と広島に原爆が投下され、「75年は草木も生えぬ」と言われていたことが嘘のように思える今が、その証かもしれません。

そのためにも私たちは困難な状況にあるひと、問題を無視するのではなく、必要なときにお互い手を差し伸べ合える社会を、これからも作っていきたいですね。

自分には関係ないから、ではなく
一人ひとり本当は繋がっていることを感じていきたいですね。

可哀想・悲惨・辛そうという視点ではなく、各々のなかに/社会のなかに再生出来る力があるということを前提に、繋がりあっていきたいです、ね。

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