じいちゃんがいたあの日
2019年の今日、私と夫は結婚式を挙げました。
高層階から海を眺めることが出来るのが最大の魅力だった会場。なんと当日は台風が直撃し、曇った空に濁った海となんとも残念な眺めでございました。
そんな結婚式の日に、忘れられない思い出があります。
当日88歳だった祖父が来てくれたことです。
熊本生まれ熊本育ちの祖父は、典型的な「肥後もっこす」でした。
家事も育児ももちろんせず、仕事で全然家にいないし、帰ってきたかと思えば釣りやボウリングやゴルフに出かけてやりたい放題。一度こうだと決めたら絶対に意見を曲げない頑固者。車の運転中に路面電車と衝突したときも、「電車がぶつかって来た!」とブチギレ。このことで免許返納するよう言っても絶対に聞かず、親戚一同で悩んだものです。
一方でコミュ力高い陽キャで酒豪だったので、友だちが多くお喋りが大好き。手帳を開いて日替わりで友人に電話をかけていました。
私にもしょっちゅう暇電してきては「絡も〜(要約)」と言ってきていました。
祖父は6人の孫に対して大変な愛情を注いでいました。
それぞれ習い事や部活など色々やっていましたが、6人全員の試合やら発表会やらを見に来てくれていました。
もちろん私も例外ではなく…
大学の時にやっていた競技ダンスの夏の大会を、祖父が見に来ると言いました。
大学生にもなってなんか恥ずかしくて嫌だな〜と思い
「体育館は暑いけん危ないよ。来ん方がいいよ」
と言いましたが
「何でや。見に行かないかん。」
と張り切って、当日は朝イチに会場入りし、最前列にバッチリ陣取っておりました。
当日、暑いしうるさい体育館で微動だにせず観戦し続けている祖父。倒れやしないかと心配でなりませんでした。しかしこちらも競技中なので話す暇はなく、昼頃には帰ってくれるといいけど…と思っていました。
しかし祖父は結局夕方の競技終了まで居続けました。
祖父パワーが効いたのか(?)、その大会で私は初めて九州チャンピオンとなりました。
帰路に着きながら祖父は
「俺はね、一目見てお前が優勝すると思っとった。だけん、朝から夕方まで帰らんかったつたい。他ん人とスピードもキレも違うけんね!」
と得意そうに話してくれました。
分かってるんだか分かってないんだかw
そして駅で別れる前にお祝い、と言ってくれた封筒の中には5万円入っていました。わお!
夫と結婚することを祖父に報告したときには本当に嬉しそうでした。
誰と話すときも笑顔で物腰が柔らかく謙虚で、話もおもしろい、おまけに高学歴な夫。すぐに気に入られ、
「すみれ、あんなにいい旦那はおらんぞ。一生懸命2人で頑張らにゃ」
と上機嫌でお酒を飲み、あまり飲めない夫を半殺しにしていました。
この後夫はめでたく祖父の「電話フレンド」となり、時々仕事終わりに祖父の長電話に付き合うこととなるのでした…。
実は、結婚式を挙げたのは、この祖父の後押しがあったからでした。
元々結婚式に興味がなかったことや、当時は札幌に住んでいたため九州に戻って結婚式…というのが現実的でなく、まあ写真だけ撮るかぁ!と話していましたが、祖父が頑なに
「結婚したならちゃんと披露せんといかん」
と言うのです。
祖父が右と言えば我が親戚はみんな右です。
あれよあれよという間に結婚式の会場と日取りが決まったのでした。
しかし、結婚式を一番楽しみにしてくれていた祖父は、口唇ガンを患いました。
「手術で取れば問題ないって先生が言いなはった」
といつもと変わらない様子の祖父でしたが、聞けば全身麻酔で切除が必要とのこと。
88歳です。全身麻酔の負担は大きく正直何があるかわかりません。
周りはみんな、正直じいちゃんは来れるかわからんよ、と私に心の準備をするよう言っていましたが、祖父だけは
「先生には孫の結婚式があるけん、それまでに治してくださいって言うとる!」
と変わらず前向きでした。
そして数日経った頃、手術が成功したとの連絡。結婚式前日に祖父に会うことも出来ました。
そんな祖父に、私はお色直しの中座のエスコート役をつとめてもらうサプライズを用意したのです。
祖父は突然の指名に驚きつつも嬉しそうで、エスコートというよりは私の腕に手を回してニコニコで歩いてくれました。
手術後はやはり少し元気がなくおぼつかない足取りでしたが、中座後はひとりビール瓶を片手に各テーブルに「すみれのじいちゃんです!」と挨拶周りをしていたそうで、友人たちからも大好評。
祖父はしきりに夫の肩を叩いては
「しっかりやっとくれよ。頑張らにゃ」
と励ましていました。
そんな大好きな祖父は翌年2月に亡くなりました。結婚式が終わった2ヶ月後に脊髄腫瘍の診断が降りてからあっという間でした。
入院した祖父は退屈だったようでよく電話してきてくれましたが、だんだん電話が繋がらなくなりました。
心配だったので、病気平癒のお守りを送ったところ、お礼の電話が来ました。
「元気にしとるか。すみれがお守りを送ってくれたけど、じいちゃん治らんかったよ。」
いつもみたいに元気で、はよ治さんといかん!って言うのかと思ったら、弱々しい声で謝られてしまいました。
私は信じたくなくて
「大丈夫、治るよ。また会いに行くけん」
と明るく伝えたのが最後の会話となってしまいました。
祖父は何となく、ガン以外の体の不調が分かっていたから結婚式をやれと頑なだったのかもしれません。
そして結婚式後のコロナ大流行。祖父の一声がなければ、私たち夫婦は結婚式を挙げなかったと思います。
毎年この日が来る度に私は、綺麗にしてもらって楽しかった光景よりも、祖父のことを思い出します。
祖父が元気に歩き回っていたのも、楽しそうにお酒を飲んで笑っていたのも、この日が最後でした。
だけど、嬉しそうな祖父の姿を思い出すと
「あぁ、結婚式してよかったな」
と感じるのでした。
祖父は、私に子どもが生まれるのをとても楽しみにしていました。
生まれた子どもはすくすく育って、耳の形はなぜか祖父そっくり。
もし祖父が生きていたら、ひ孫が元気にしてるかどうか気にして、しょっちゅう電話してきただろうな…。
会うことは叶わなかったけれど、きっとどこかで見守ってくれているでしょう。
じいちゃん、結婚式させてくれてありがとう。