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多様性云々の前に、気をつけたいこと。

 こんにちは、スミレです。
 noteを始めたきっかけは、探究の授業で考えついたあることを発信すること。
 勢いだけで作ったこのアカウントに、始めたての頃よりも多くのビュー数をいただけるようになった今、改訂版(?)としてもう一度投稿してみます。


 発信したいこと。
 それは、多様性云々の前に、目の前の一個人を尊重できるようになるべきではないか、ということです。

 社会は「箱」で動いていると思います。
 年齢、性別、人種、宗教、障害……他にもたくさんの箱があって、私たちはその無数にある箱に梱包されて生きています。
 まあ、楽でいいですよね。商品をむき出しのまま転がしておくより、ダンボール箱に詰めた方が仕事の効率はきっと上がる。
 ただ中身が人間ともなると、なかなか面倒なことが多い。あらゆる差別、あらゆる格差、あらゆる争いの火種になってきた「箱」があることは、テレビをつけてニュースを見れば一目瞭然かと。

 そう、テレビをチラ見しても分かる通り、日常から地球全体まで、割と問題だらけです。だらけ、は言い過ぎにしても、無視できない問題がそれなりの数あることに違いはないでしょう。社会問題でも、個人的な悩みでも、大なり小なり存在するもんです。

 私は、人類が生きてきた時間に対して、解決できた問題の数が少なすぎると思っています。少ないというか、結局増えていくというか。
 どうして丸く収まらない物事ばかりなんだろう。収められないなりにも、もう少し穏やかに生きていけそうなもんなのに、心身から血を流さなければいけないってどうしてなんだろう。
 自分なりに考えて、出した答えが、目の前の一個人を尊重できるようになればいい、ということです。

 それを答えとした理由は、私の父の話にあります。

「田舎の、しきたりっていうか、空気感が嫌いで関東に来たんだ」

(以下は、私の父から見た親族の呼び方で書いています。ややこしくてすみませんが頑張ってください)
 曰く、姉が大学に進学したいと言うと、父は「女が大学に行く必要はない」と猛反対。姉は意地で短大に進学したが、それが人生初の反抗だった。
 曰く、本家の奥さんが女児を2人産んだ時、「跡を継げる男子じゃないのか」と陰口を叩く連中がいた。

 この他、「もう18歳だし、話してもいいか」と言うことで教えてもらった2つのエピソードも書きます。見る人によっては気分を害する可能性もありますが、あえてそのまま書きます。

 曰く、姉の結婚相手に対し、両親は戸籍を無断で覗いて「部落の人との結婚は認めない」と発言。大喧嘩になったが、私(スミレ)の父が「その屁理屈通したら俺は2度と実家に帰らねぇ」と言って両親を黙らせたそう。
 曰く、母には第3子がいたが、親からは降ろすように強要された。父が母を擁護することはなく、結果本当に堕した。

 私は特に、本当だったら父には弟か妹がいたはずだった、というところにショックを受けました。家制度の名残、部落差別に中絶、少し前までは他人事だと思っていたものばかりです。
 自分で言うのも変な話ですが、感受性が高いと自認しているだけあって、それはそれは落ち込みました。落ち込みながら、それでも思考は巡っていました。

 そうして気づいたことが2つ。上記のエピソードにある共通点と、父が言っていた空気感の正体について。

共通点……(家という)まとまり意識・「箱」で人を見る力が強すぎる。

空気感の正体……箱でしか人を見られなくなっているが故の、「物」扱い。

 箱で見る力が不要とは言いません、先述の通り、効率を捨てて回せるような世界ではないから。
 例えば、猛暑日のアスファルトの上にダンボール箱が散らばっていて、とっても邪魔だったとしましょう。
 じゃあ、と綺麗に並べて積み立てて、それで満足してはいけません。確かに事故なんかは防げると思いますが、それでは足りません。
 だって、中身がアイスだったら、全部溶けちゃいます。しっかり中身を確認して、冷凍庫が必要であると気づかなければいけません。
 また、中身をパッと見して「レトルトだな」と早合点してもいけません。チルドがひとつでも混じっていたら食中毒待った無し、最悪死人が出ますから。
 その時、ダンボール箱なしに冷凍庫・冷蔵庫に移すなんて大変です。
 適宜中身を見ればいいのであって、箱を使うこと自体は何も悪くありません。
 ちょうどいい塩梅で、人を「箱」で見たり、「個」として見たりしていけばいいのです。

 ただ、空気感の正体の方は、流石にヤバいでしょう。例えば中絶の話、文房具に例えられます。
 「私のペンケースに消しゴム3つもいらない、1つは捨てろ」と言っているようなもんです。人命を、です。これはあんまりでしょう。

 どうして伯母さん本人のことを見なかったのだろうか。
 どうして祖母本人のことを見なかったのだろうか。
 どうして第3子本人のことを見なかったのだろうか。
 女だから。子どもだから。嫁だから。そういう箱じゃなくて、中身は。
 どうして誰も見なかったんだ。
 ……いや中身を見ずとも、箱まるごと立場が下というような感覚はどうしてなんだ。

 ……と、やや感情的に考えていました。
 少し落ち着いて、「箱」だけが先走っているのは世界にも言えることだよな、と考えました。

 生きやすい社会のために、多様化は必要なものだと、私は信じています。
 少なくない数の人々が、多様化の実現を目指して色々考え、行動しています。
 ただ、闇雲に、手当たり次第に。解決策をでっち上げることになっては意味がないでしょう。

 国がどうとか、人種がどうとか、宗教がどうとか、年齢がどうとか、性別がどうとか……。
 いやいや、本人を見てあげてよ。
 「箱」で見る力ばっかり鍛えすぎなのよ。いやそれも必要なことかもしれないけれど、偏りすぎもどうなのよ。

 箱Aに優しいルールじゃ、箱Bが苦しい。
 箱Bに優しいルールじゃ、箱Cが苦しい。
 箱Cに優しいルールじゃ……

 問題の解決策を考えるというのは、ただでさえ難しい。
 それでも中身を、目の前の一個人を見ずにいて、生きやすい社会が実現できるでしょうか?
 目の前の相手に、自分という「個」を否定されて、どう幸福に生きろというのでしょうか?

 難しいのは分かっています。だからこそ、自分自身が、1人1人が努力する必要があるでしょう。
 偉い人たちに任せておけばいいもんでもない。
 表立って発言できる人たちに任せておけばいいもんでもない。

 これが、私がnoteで訴えたかったことです。
 以前に書いた3つの記事を以下のマガジンにまとめました。多様性を認めるための土台が自分の中にあるかどうか、考えていただければ幸いです。

 ここまで読んでくださりありがとうございます。

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