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どこまでも「最低最悪な自分」を、受け入れる


の、続きです。



前回は書く勇気が無かったのですが、実は私、小学校4年生の頃、好きな男の子に自分の素直な気持ちを伝える事が出来ず、それでも何とか自分に振り向いて欲しかったばかりに、そのアプローチが過ぎてしまい、嫌われてしまった過去があります。


それは、普段は比較周りの女子には物腰の柔らかかった彼に「こっち来るな」と暴言をはかせてしまうほど。

以来、人生の中で何かとその頃の記憶を思い出すことはあっても、今までちゃんと向き合って来れなかった理由が今ようやく、少しづつ見えてきたような気がしています。

「そこまで気にしてない、私は大丈夫」とずっと思って来ましたが、「好きな人に、嫌われてる」事実を私、今までずっと受け入れる事が出来ませんでした。

本当に、キツかった…
だってそれを受け入れてしまったら、「このあたし」が「ダメなんだ」ってことを心底痛感することになるから。



更にこの頃の感情を掘り下げていくたびに、今まで見て見ぬふりをしてきたであろう自分の姿が次々と見えてきました。


「自分の人生が思い通りにいかない」ことを全部他人のせいにしていたり、

「誰かが私のために動いてくれる」ことをずっと期待していたり、

目の前の相手を(実際にはその相手を好きな自分を)「好きだと思ってる」だけで、実は「人を愛する」という気持ちが全く「分かって無い」ことに気付いてみたり。


何より衝撃だったのは、「自分の考えが絶対的に正しい、私は絶対に間違えてない」という思いが自分の中で当たり前以上の当たり前に染み付いており、そこになんの不信感も疑惑も抱いて来なかったということ。

そして、人からの異論やアドバイスは私にとって「攻撃」でしかなく、その時はまるで「待ってました」と言わんばかりに烈火のごとく相手を責め立て、自分から被害者になりに行く事でその相手に罪悪感を抱かせるよう仕向けたり、時には自分自身を「鬱」にまでして、いかに「自分がダメなんじゃない」ということを証明しようとしてきたかを痛感しています。


「今まで散々、自分は被害者だと思い込んできたけれど、実は私、加害者かもしれない…」と、そんな思いが過ぎった時、ふと目に止まったサイトにその「答え」があったように思いました。


「ドキリ」とし、数日はまともにその情報を知ろうとすることも出来ませんでしたが、思い切ってありとあらゆるYouTubeを見漁り、そこで自分の中から出てきた「痛み」を今はとことん味わうことにしました。(中々上手くは行きませんが…)


同時に、自分の過去の行いや対人関係などがひとつひとつが照らし合わされ、よりその事実が明らかになっていくようで、今まで自分が何をしてきたかを「客観的に知った」事で、それがどんなに最低最悪な自分でも、前よりも「自分が近くにいるみたい」で、もう無駄に偽らなくていいような、少し肩の荷が降りたような安心感すら、今はあります。


とはいえ、前回の記事に然り一年前の自分では、今回のような事実を知ったところで、今以上に受け入れ難かったとも思います。


全部私が間違ってたとか
特別な自分なんてどこにもいないんだとか。

それでも、どんなに最低最悪な自分でも「逃げたくない」と今思えてるのは、その自分を終わらせて、「大好きな人達と一緒にいる」ことを、今度こそは経験してみたいから。


自分のことを「特別」と思い込んで、気付いたら周りに誰も居なくなった「孤独」な人生は、もう二度と味わいたくないから。

そんな、自分の「本心」に近いものに、少しでも触れてしまった今があるお陰かもしれません。


そんなことを色々思っていたら、以前自分の過去世に触れた時のことを思い出しました。


あの時にはピンと来なかったものが少しづつ繋がってきたような感覚があるので、また次回書いてみようと思います。




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