トランスジェンダー(最高裁の違憲判決について)
背景
2019年に、原告であるトランスジェンダーの方が戸籍上の性別変更を家庭裁判所に請求しましたが認められず、その後最高裁まで特別抗告した。
またこの裁判は対立当事者がいない司法手続きであり、これについても当時から「反対意見を聞けない」「裁判所の独断」という意見も当時あったらしい。(真偽は不明)
原告によると「社会的に長く女性として生活しているにもかかわらず、苦痛や後遺症の恐れがある手術をしなければならないのはおかしい」というのが主な主張。
現行法によると、性別の変更の要件は5つあって以下の通りである。
この内④と⑤が、人権侵害にあたるとして裁判が進められていたが、④について違憲であるという最高裁の判決が確定。⑤については高裁にて再審理
違憲の理由:手術を受けるか諦めるかの残酷な2択を迫っている
つまりは憲法第十三条
に則していないからです。
私的初見
まず裁判所の言う残酷な2択とは何か?を私なりに解釈すると
A:手術をする→性別適合手術における身体へのリスクと経済的理由
B:諦める→精神的、社会的立場において不遇
これらを総合的に判断すると、結論には賛否があるが、個人的に問題ないと思う。あまり知らないが日本司法書士会連合会という大きな団体からも支持するという声明が出されている。
また要件⑤が再審理になっているため、いわゆる「女風呂に男性が…」という事例についてはまだ結論は出ていない。そのような発言をしている人たちは全員小学校から国語をやり直…といった過激な発言は控えますが、要件④が違憲と言うなら、⑤も違憲となる確率が高いことは事実である。
そして何よりこの「流れ/風潮」がいいのか悪いのか、今の時点で私自身もはっきりと答えを出すことが非常に難しい。
ただ最高裁の判断として、充分な検討がなされたのかという点については少し疑問が残る。
当事者の内で、反対意見を持つ人に話を聞いたのか?世論やWHOの見解に流されていないのか? ぶっちゃけ④がダメなら⑤を差し戻した意味もよくわからんです。
「何のために判決をだすのか?」判決の与える影響や自分たちの立場をどう考えているのかについて、機会があればぜひ聞いてみたいと思う。
極論だが「家畜が可哀想だからお肉は食べちゃだめ!」という裁判があって、可哀想だからダメって言うぐらいなら誰でもできる。それを客観的、論理的に考え判断をするのが裁判所の役目であり、責任だと思いたい。
不安
ただしこの裁判の判決が最後まで結論づいたとして、手放しで喜べるほど、残念ながら日本はできた国ではない。
未だにSNSでは誹謗中傷、ヘイトなど、不特定多数の人間が他者を貶める発言、またそれを煽るメディアの偏向報道がなされている
「アメリカでは、ヨーロッパでは…」と海外の事例を引き合いに出し、さも「自分たちはあなたたちの味方です!」と言わんばかりの有象無象が発信している情報のうち、本当に自分のためではなく誰かのためにと行動をしている人間が何人いるのか?
これについては、毎回疑問に思っている。もちろん私自身もその一人に数えられるかもしれないが、その人間の普段の行動や発言、生き方を見せ、そうではないと主張したいと思う。
こればかりは他者に判断を委ねるしかない。
話が脱線してしまったが、今回の結果についてもう少し深く掘り下げるなら以下のような考え方もできる
先程の残酷な2択について、「もし…」という言葉を使ってよいのであれば
・もしテクノロジーが進化し体への影響が少ない(生殖機能を残したままの)外科手術を、費用負担がない仕組みを構築できたなら?
・戸籍上の性別は関係なく、人であることを尊重し、他者を下卑するような言動や行動が一切ない世の中であれば?
そう考えると、実は根本的な原因は憲法如何などではなく、全ての人間のマイノリティーに対する姿勢なのではないかと思ってしまう。
今回の判決によりおそらく法律上の戸籍変更要件については見直されるとは思いたいが、過去のこの国の対応の遅さや、責任ある立場の人とは思えない発言などを加味すると、なかなかどうして不安が残ってしまう
どちらにせよ政治家や有識者、著名人や一般人、まあ要するに全ての国民の理解の無さが、一部の方々を苦しめる結果につながることには本当に注意しなければならない。
それは私自身も含め、社会生活を営むものにとって必要な配慮であり、どんな状況においても自尊などというつまらないものを優先すべきではない。
同時に、これは今回の事例だけに限らないということもしっかりと理解しなければ、同じことが繰り返されるつまらない未来になってしまうことをできれば避けたいと思うばかりである。
取材
ここからは個人のプライバシーに関わるので、内容には非常に気をつけております。ですので、一部分かりづらい部分もあるかと思いますがご了承ください。
とある方にお話を聞く機会がありました。いわゆる性的マイノリティーの方です。
お話の中では、当事者としての捉え方、不安、信念などさまざまなことをお聞きしました。
***
まず印象に残っているのが、その方が「半当事者」という表現を使ったこと。
世の中にはLGBTQへの理解を得るための活動を積極的に行っている人がいて、それに個人としては参加はしない(というか期待していない)が、その活動の結果、制度が変わればそれはそれでいい。
だから半当事者。
私は勝手にこの言葉の中に(少なくともこの国において)問題が集約されている気がしてならなかった。
当事者という表現や、◯◯である(いわゆるカテゴライズされる)というのはあくまで区分であり、その人の性質を表すものではない。
例えばすけまるは37歳の男ではあるが、37歳の男がすけまるではないのと同じように、マイノリティーだからといって、マイノリティーとして生きる必要は一切ない。
だから現状に満足していようがいまいが、人と違っていようがいまいが、そんなことは関係ない。
自信がどう生きて、考え、行動するかは個人の自由なんだと思う。
知らず知らずのうちに、というかこれまでの積み重ねによって、私達は世の中の大多数(マジョリティ)側にいると錯覚しているが、結局最終的に判断されるのは個人の意志である。
それが同調圧力、排他的思考に類似するものによって抑圧されているのであれば、とっとと無くしてしまえばいい。
こうしなければならない、こうあるべきだはこの世界に存在しない。まだ日本ではこの感覚を持っている人間が少ないことが、世界に遅れをとっていると言われる所以である。
それを日本の良さという風に解釈することも、また人の自由である。
でもなんか…ちょっと寂しい感じがするなぁというのが今回の話の結論である。
後記
最後になりますがお話したその方に感謝というか、本音を伝えると。私なんかにその事実を打ち明けてくれたことが嬉しいと感じました。なぜかは分かる人には分かるはずなので書きません。
またこの記事や動画をご覧になった方の内、不快な思いをさせてしまうこともあるでしょう。
ただこれは私の意志です。結果がどうあれ全てを受け入れるつもりです。
最後までご覧いただきありがとうございます。
(11/8 お店のYou Tubeにて生配信)
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