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斜め読みに学ぶ記憶の作り方

 大げさなのはタイトルだけで、自己啓発でも啓蒙でもセミナーでもない。ただ感じたことを書いただけで恐縮です。

 最近、読書スイッチが入った。何年ぶりだろうか、中学生以来かもしれない。初めて読んだ星新一氏のショートショートは4コマ漫画を文章で読んでいる様な感覚が新しくて面白い。多分このように起承転結を明確に書くことを意識して短く完結させる文章を繰り返し書いてみれば、書く力を鍛えるトレーニングになるのだろうと感じた。前に面白くないと思った作家の別の作品が面白かったので食わず嫌いは良くないなと思ったり、大人にしては稚拙な感想をいくつか持った。私がこれまで読んだ本の中で、いわゆる有名な本をいくつか読んでいるはずなのだが内容をまるで覚えていない。おそらくあの時は、内容を理解できていなかったのではないかと思う。時を経て今読んだら、もしかしたら何か理解できるかもしれないし、何か違う感想を持つかもしれない。新しく発見するかもしれない「何か」をみすみす逃すのが惜しいと、今強く思っている。

 今読んでいる本は海外の作家が書いた作品だが、まだ面白いかどうか良くわからない。昨年までだったら、途中で読むことを止めていたかもしれない。読書に費やすことのできる時間はとても貴重で、つまらない本に出会ってしまったことをものすごく不幸で残念だと感じていた。それだけ時間に追い詰められた社会なのだ現代は、と思う。しかし、今はこの本を読んでいることを不幸だとも残念だとも思わない。後半に「何か」あるかもしれないし、なかったとしても経験を重ねられることには違いない。

 本を読むときは、たいてい文字を一つずつ、文章を一文ずつ、取りこぼさない様にじーっと見つめて読んでいた。今もそうだが、この海外作家の本は所々斜め読みを試みている。最初はこの本が嫌になる前にさっさと読んでしまおうと思って始めてみたのだが、三つの新たな発見があった。特に三つ目がタイトルに直結する。

 一つには、疲れる。行の先頭から3行ほど先の最下段を目指してザーッと見渡すのだが、眼球運動をすごくしている気がして筋肉が疲れるし、集中力が必要で脳も疲れる。大筋の内容は理解できるので、一時期速読が学習能力を高めるために有用だとして注目を集めていたが、なるほど集中力も読解力も鍛えられるという意味が良く分かった(速読は今、どう扱われているのだろうか)。膨大な情報量を処理するには確かに適しているのかもしれない。

 二つには、文章の細かいところまでは認識できない。これは全く当たり前のことだけれど、私としては新しい発見だった。実際に斜め読みをしてみると、内容は大体理解できるのだが一言一句のニュアンスまでは認識できなかった。元々当たり前の様に全てをじっくり読もうとしてきた私には、何か見落としているかもしれない可能性は大きな不安要素でもあり、せっかく紡がれた文章に対してもったいない気もした。実際に分からなくなった部分が大事な人名だったので、確認しに戻ったりもした。こうして先に読み進めるうちにこの本の読み方が定まってきた。それは、大事なところはちゃんとゆっくり読んで、そうでないところは斜め読みをすること。この本にはフランスからスペインにかけての知らない地名がわんさか登場しているが、巻末の注釈をいちいち確認してはストーリーが進まない。だから、知らない土地を旅したり移動する過程はざーっと斜め読みすることにした。この本では登場人物たちの会話が重要なので、主要な登場人物の名前を認識して会話を通してひととなりや人生模様をじっくり読み込むことにした。この過程を経て、大事な場面とざっと読めば良い場面を区別できたことは収穫だった。おそらく、今まさに受験勉強として現代文を攻略しようとしている20歳前後の若者には当たり前の作業だろう。今更になって気が付いたのだよ、大人なのに。文字に残すことが大事だと信じて、恥を忍んで書いておく。

 三つめは、記憶の仕方とは、文章をじっくり読むか斜め読みするかの違いと同じかもしれないと思った発見だった。私は元々アルファベットと数字を除いて記憶力が良い方で、いつどの場面で誰がこう言ったというやりとりを割と正確に記憶している。人と話した時に、相手も覚えていて当然だと思ったのだけれど、相手は覚えていないことが多々ある。どうでも良いことだったのだろうか、と悲しく思うこともあった。でも、今回本を斜め読みして分かった気がした。

 過去のやり取りをあまり詳しく覚えていない人というのは、どの会話も元々ざーっとしか認識していなおのが当たり前で、これがまさに文章を斜め読みするくらいの認識と同じなのではないか、と。一言一句を取りこぼさなくて良い会話だこれは、と場面ごとに認識しているというよりは、元々の人の話を聞く姿勢が斜め読みなのではないか、と。

 この様な方が一言一句覚えていようとするならば、それはたぶん恋に落ちてアツアツ真っ最中の時。あるいは、とても仲の良い友達や頭の上がらない厄介でお節介なタニマチだったりとのやりとりだったりするのかもしれないけれど、相手に限らず自分にとって刺さった言葉、気に入った言葉、うれしい言葉が飛んできた時にはずっと覚えている傾向がある。事実、こちらから一回しか言っていない言葉を、先方から何度も言ってくる。斜め読みしている間に、心に響いて記憶が作られたと考えて矛盾しない。こういう方々の中には、相手にする人数が多い方、例えば飲食店の店員さんだとかいう方もいるのだろうと思う。多数の客とその個性という膨大な情報量を処理しなければならないのだから、斜め読みでもして特徴的な言葉をその客と結び付けて記憶しないと対応できないのかもしれない。でも、少数の相手に対しても斜め読みの記憶をする人もいるのだから、やっぱり元々の考え方が違うこともあるのだと思う。

 記憶が作られる過程が、人によって違うことが読書を通じて分かった気がした。私は文章を全部じっくり読み込もうとする。違う人は、斜め読みしてざっと理解して細かいことは気にしない。どちらが良いというのではないしどちらにもメリットデメリットいずれも存在する。今回の発見で重要なのは、自分と違う考え方に触れることが出来た気がしたことだった。他人の考えを想像して尊重し思いやることはもちろん大切で必要なことである、人間だから。しかし、実際に未知の考え方を読書を通して疑似体験したことで、先方の気持ちに寄り添うことが出来そうだと思った。とても良い経験だった。会話や記憶と読書は違う世界の様だけれど、どこでつながっているか分からないものだ。

 次とその次に読む本は決めてあるが、その先はまだ決まっていない。でももし次に文章を書くときには、いつもつい長くなってしまうからショートショートという未知の世界に一度挑戦してみたいと思う。思うことは自由ですし。

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