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「教え方が悪い」って、もう言わないよ。

吾輩は猫を被るニンゲンである。名前はぽん乃助という。

私は不器用だった。だから、色んなことで躓く(つまずく)ことが多かった。

覚えているのは、折り紙を折っていたとき。教室で私だけが、みんなのペースに合わせることができなかった。

-私だけが、取り残されている。

私は、そんなふうに感じることが多かった。

そして、あのときの先生の苦笑いの顔は、忘れられない。

まだ未成熟な私の心では、自分の不器用さを恨む感情をひとりで抱えきることができなかった。

だから、「教え方が悪い」と他責的になることで、なんとか平穏を保っていたのだ。

そして、大人になっても私は、この輪廻を抜け出すことができなかった。

入社したてのとき、上司との相性がすごぶる悪かった。

RPGで冒険し始めたような新入社員にとって、相対的に上司のパラメータを測ることなんてできないはずだ。

でも、ストレスでどうにかなりそうだった私は、「教え方が悪い」と思い込むことでしか生き抜く方法はなかった。

「教え方が悪い」という概念は、確実に存在する。「教え方が悪い」人についていったら、悪影響を受けることもある。

でも、私は決めたんだ。これから苦境に立ったとしても、「教え方が悪い」ってもう言わないと。

SNSの世界を歩いていると、不思議な光景をよく目にする。

リアル世界では、学校の教員不足が社会問題になっている。

でも、SNSの世界では「先生」と名乗る人があまりに多い。

そして、匿名で素性もよくわからない「先生」に傾倒している人もいる。

それと同時に、教える人の理想像が提示されることも増えた。

「こういう学校の先生は素敵だよね」「こういう上司であるべき」「こんな親だったら子どもは幸せだね」

逆に、教える人が事件を起こすと、手のひらを返すようなコメントに溢れる。

「学校の先生も信用にならないね」「こんな特徴の上司には気をつけろ」「自分が親だったらこんなことは絶対にしない」

インターネット上では、先生でも上司でも親でもない立場の人(すなわち教えられる人)が、先生や上司や親(すなわち教える人)のあるべき姿を平然と語るようになった。

私は、このことに強烈な違和感を覚えた。

そもそも、自分だって完璧じゃないはずなのに、なんで他人に完璧を求めるのか。

そう考えていると、私の目にノイズが走った。そして、こんな声が聞こえた。

-教え方が悪い。

自分を棚に上げて他人に完璧を求めていたのは、ほかでもない私だったんだ。

私は、いるはずもない理想の先生を追いかけ続けてきたんだ。

私は社会人になってからサックスを始めて、そろそろ10年になるという頃合いだ。

私は、サックス教室に通って、3人の先生に教えてもらうことを経験した。

その3人の先生は、教え方が全然違った。

1人目の先生は、若い女性の先生だった。基礎練はあまりせず、曲を中心に練習した。

「歌うように吹いてね」という先生の言葉を、今でも覚えている。楽器を挫折して辞める人が多い中、先生は自分の生徒には挫折してもらいたくなかったんだと思う。

でも、ある日突然、先生は音楽教室を辞めることになる。通っていた音楽教室の組織がしっかりしておらず、所属していた先生方が大量に辞めたその一人だったのだ。

そして、私は音楽教室を変えて、新しい先生に教えてもらうこととなった。

2人目の先生は、中年の男性の先生だった。基本に忠実で、社会人向けのユルい音楽教室とは思えないスパルタ教育だった。

「あなたたち大人ですよね?」「子どもが吹いている音楽ですか、これは?」

まさか、社会人の音楽教室でそんな言葉を、何度も聞くことになるとは思わなかった。

複数人でレッスンを受けていると、できない人だけがみんなの前で何度も吹かされる。

こんな光景も当たり前で、いつもレッスンの前は、緊張と憂鬱が入り混じる気持ちだった。

レッスンが終わった後に、一緒に練習している生徒と、先生の陰口を言っていると、謎の結束感が生まれたのは今やもう懐かしい。そして、確実にメンタルの強靭さは身についていたのだと思う。

そして、私はこの4月に東京から大阪に転勤となり、3人目の先生と会うことになる。

3人目の先生は、今の先生であり、自分より少し上の年齢であろう男性の方だ。音楽教室で用意されたテキストは一切使わず、自由な教え方だ。

意外にも、びっくりするほど基礎の基礎を練習することもある。レッスンの時間の使い方も、他の先生とは違って、とてつもなくマイペースだ。

2人目の先生とは違って褒めまくるスタイルなので、スパルタに洗脳された私は、今もなお、逆に戸惑ってしまうこともある。

ただ、今の先生からは、枠に囚われて楽器を演奏する必要ないということを学ぶことができている。

そして、9月にサックスの演奏会を迎えた。コロナ禍が明けた影響もあり、そこまで広くない会場に70人程度が詰まっていた。

これまで私は、特にソロの演奏会では、本番前に緊張することが多かった。

観客が多い今回は、いつも以上に緊張するに違いないと思ってた。

でも、不思議とそうはならなかった。いつもと違って、手が温かく、指先まで神経が通っていた。

そうこうしている間に、自分の出番が次となり、控え席でその瞬間を迎えた。

おもむろに先生から、「緊張してる?」と問われた。

「いや…全然緊張してません!」

私はそんな言葉を残して、たった一人で、笑顔でステージに向かった。

むかし、「私だけが取り残されている」と感じていた私とは、大違いだ。

結果は吹く前からわかっていた。練習どおり…いや、練習よりも本番ではうまくいったのだ。そして、何よりも楽しくて楽しくて仕方なかったのだ。

演奏会の打ち上げでは、周りの空気感に押されて、少々飲み過ぎてしまった。

その帰り、電車で席に揺られながら心地よく酔いを感じていると、ふと冷静になって疑問が頭に浮かんだ。私はなぜ、緊張しなかったのか?

それはきっと、色んな先生から指導を受けてきた賜物に違いない。一人の先生から教えてもらうだけじゃ、ここまで成長できなかったと思う。

学生のとき、好きな先生もいれば、嫌いな先生もいた。嫌いな先生から指導を受けているときは、苦しくて苦しくて仕方なかった。

でも仮に、好きな先生だけを経験していたら私はどうだっただろうか?

私は、嫌いな先生を経験したからこそ、好きだと思える先生がいたわけで、反面教師という言葉もあるとおり、嫌いな先生から無意識に学んだことも多かったに違いない。

上司だって同じだ。嫌いな上司がいたからこそ、好きだと思える上司もいるんだ。

私はまだまだ未熟だ。だから、「どんな先生・どんな上司・どんな親が正解なのか?」という問いを、私には解くことはできない。

でも、一つこれだけは言える。

「多くの人から影響を受けてきたこと」で、今の私があるんだと。

そして私は、改めて誓うことにした。

「教え方が悪い」って、もう言わないよ。

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