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「書く瞑想」とナヴァルは言う。

今、ナヴァル・ラヴィカントの書籍を読んでいる。
そこに書いてあった一文が響いた。

瞑想とは、社会のスイッチを切って自分の声に耳を傾けることだ。
瞑想に「効果」があるのは、瞑想そのものを目的として行うときだけだ。
ハイキングは歩く瞑想だ。
ジャーナリングは書く瞑想だ。
(後略)

「シリコンバレー最重要思想家 ナヴァル・ラヴィカント」サンマーク出版

ジャーナリングという単語にカッコで注釈がついていた。
(頭に浮かんだことをそのまま書き出すこと)

私が数日前にnoteで日記を書こうと考えた時、この一文にはまだ出会っていなかった。だが私がこのnoteでしたいことはまさに「書く瞑想」なのだ。

クライアントもペルソナも考えない。ただ脳裏に浮かんだことを書く。公序良俗に反することはさすがにだめだけど、悪い考えもよぎるんだよな。それを躊躇するのは瞑想にならないのかな。

瞑想は「無」の境地に至ることが最終地だと思うが、アウトプットし続ける瞑想はどこに着地点があるのだろう。

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