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【短編小説】ここを過ぎて

 久しぶりに都内に出て浮かれていた僕は、用事の済んだ午後に中目黒で改札を出て、ミルクティーを片手に目黒川沿いを散歩していた。六月。生憎の曇天だったが道ゆく人々はそこそこ多く、梅雨の日の一コマを楽しみながら小洒落た店をウィンドウショッピングして、10分ほど歩いたところで中身を飲み干した容器を持て余す。もう少し歩くか、大人しく駅に戻って帰宅するか迷っていたところで、ちいさな古本屋の軒先に出された本棚が目に止まった。いかにも中目黒らしく、真っ白な壁にゴシック体でなんとかBOOKSと書かれている。ガラス張りの店内は見通しが良くいくつかの書架が置いてあるだけだ。神保町あたりに出向けばいくらでもある、「〇〇書店」「〇〇書房」と看板を出していて、店内が本で溢れかえり、人一人がぎりぎり通れるスペースが確保されているような店構えが好みの僕には、その店はちょっとすかして見えた。よく知らない街を散歩するときにかならず立ち止まるポイントがあり、古本屋はその中の一つだ。ちなみに残りはコインランドリーと雰囲気の良い路地で、ノスタルジックなものを見ると心躍る性質なのだと思う。とにかくその例に漏れず、多少気に入らない店構えだったとしても僕はその店の前で立ち止まった。そしていつも通り、五十音順に並んだ書籍に視線を滑らせる。…「せ」「そ」、「た」。軒先に投げ売りされているような本の場合、大抵「た」の先頭に並べられる作家の名前を認めたが、意中の作品はやはり見当たらなかった。

 3年前の夏から、太宰治の『道化の華』を探している。

 特別な思い入れがあったわけではなかった。大学の文学講義であらすじを聞いて、なぜか心を掴まれるものがあり、その足でブックオフに行ったが文庫コーナーに『道化の華』は無かった。大学1年生の初夏、まだまだ学習意欲に溢れて薔薇色のキャンパスライフに夢を馳せていた時代だ。今となっては授業の参考文献をすぐに探しに出かけるような意識の高さは失われている。それからというもの、散歩の道中や旅先など、あらゆる場面で古本屋に立ち止まり「た」行の棚を眺めては少し落胆して店を出たり、他の本を買ったりする生活を続けてきた。ある夏に京都の下鴨神社で盛大な古本市が行われるという情報をキャッチした僕は、気になっていた後輩を古本市デートに誘う口実に『道化の華』を使った。その頃にはもはやあらすじさえもほとんど忘れていて、古本屋を見つけては立ち寄って探すという奇妙な習慣だけが残っていた。いくつもの歴史ある古本屋が在庫をはたいて参戦する大きな古本市で小一時間くまなく探しても、神保町の古書店群を回っても、見つからなかった。あるとき友人から「青空文庫にもある作品じゃないか?ネットで無料で読めるだろう」と言われたが、この期に及んでどう考えてもそういう問題ではない。『道化の華』を見つけるまで僕の大学1年生の夏は終わらないという青くさい確信があり、それを見つけることで例のデートをきっかけに付き合い始めて次の冬に別れてしまった彼女の笑顔をやっと忘れられるような気もしたのだ。

 そうして3年の月日が経ち、中目黒の川沿いで、大学生でいられる今年のうちになんとしてでも『道化の華』を見つけるべく決心して、今まで一度も調べたことのなかったその本の装丁を検索してみた。しかし、いくら探しても電子書籍版の表紙しか見つからず、Amazonにさえ無かった。僕は戦慄した。そして、誰かがヤフー知恵袋で質問しているページを読んで『道化の華』単体の文庫は存在せず、『晩年』という短篇集におさめられた中の一つの物語のタイトルであることを知った。なぜか僕は、講義を受けた日に『道化の華』の文庫が存在すると盲信してしまったのだった。この3年間に入っては出てを繰り返したどこかの古本屋には『晩年』の文庫があったに違いない。というか、あった。僕は実際に太宰の本を手に取ったことは一度としてなく、もちろんページをめくってみることもなく背表紙の文字しか見ていなかったから全く気がつかなかった。でも、絶対に文庫があると思い続けていたのは一体どうしてだろうか。過去に想いを馳せるが、記憶力がいい方ではない。不思議な脱力感にとらわれたまま歩き出し、駅に戻って券売機に差し掛かったところで突然に思い出した。かつて、炎天下の京都で古本市を歩いている最中に彼女が言ったのだ、「私、その文庫は読んだことがあります。先輩がそんなに探していることを知ってたらとっておいたのに、売っちゃったんですよ」と。当時、文庫の存在を信じて疑わなかった僕はその何気ない一言を受け流したが、そんなものは存在しなかった。腹が立つでも胸が空くでもない鳥肌が腕まで上ってきた。彼女が僕の気を引きたくて適当なことを言ったのか、本当にそんな文庫が世界のどこかに実在するのかはわからないし、連絡先を消した今となっては確認する術もない。その一言が僕の確信をより強固なものにした。さすがのロマンチストである僕も十中八九前者の可能性が高いと思ったが、彼女がそんなどうしようもない嘘をつく人間でないことは知っている。だからこそ、あの文庫が実在して、彼女はそれを読んでただ僕に事実を伝えただけである可能性を信じてみたくなるし、そうでなければ、手段が目的になってしまったこの習慣と僕の3年間をどうしてくれようか。

 新卒でも定時で上がれることを売りにしていたはずの会社で、当然のように残業をさせられる毎日だったが、珍しくきっかり18時に仕事が終わった。あれから僕は大学を卒業し、池袋のオフィスビルで働いている。会社と自宅の往復で、大学時代のようにふらっと散歩に出かけたり旅行に行く余裕なんてとても作れない。まだ陽の高い東京の夕方に若干のときめきを覚えながら、副都心線で帰路につく。普段ならつり革に捕まって死体のように電車に揺られ、渋谷で乗り換えるまで20分ほどかかる道程だったが、ふいに思い立って隣駅の雑司が谷で降りてみることにした。大学時代に友人と連れ立って遊びにきたことのある街だ。池袋から一駅の距離にも関わらず静かな下町の風情があり、神社や駄菓子屋、ちいさな雑貨屋などが軒を連ねている。スーツ姿の男が人もまばらな夕暮れの商店街をふらふら歩いている姿を客観視して虚無感に襲われつつ、肉屋でコロッケを買って頬張りながら徘徊していると、裏道に古本屋の看板を見つけた。なかば義務のような気がして路地に吸い込まれていくと、こぢんまりとした店が見えてきた。ガラスの引き戸の向こう側には所狭しと本棚が並んでおり、ちょうど女性が一冊の本を持って出てきた。思わず身を引いたが、彼女は会釈し、ドアを開け放したまま去って行ったので立ち尽くしているわけにもいかず店内に足を踏み入れた。僕に気づいた柔らかな雰囲気の初老の店主は「あと10分で店じまいでね」とだけ言って机上に視線を落とした。五十音順に著者名を追って「た」を探すのは、呪いのように染み付いている癖だ。並んだ太宰治の中に『晩年』があった。手にとってページをめくると確かに『道化の華』が収録されている。あれほど探し求めて幻のように思っていたものが、こんなに簡単に手に入ってしまうとはロマンのかけらもない。買うかどうか迷っていると奥から声がした。「あんたも太宰かね。最近また流行っているのかい。さっきの人もその棚に直行で、買ってったよ。やけに薄いやつね」そうなんですかと気の無い返事をしたが、数年に及ぶ僕の太宰の文庫データベースを探しても、やけに薄いものなんて見たことがない。特段気になったわけではなかったが、何気なく「それ、なんて本でした」と訊き返すと、耳を疑うタイトルが返ってきた。思えば彼女はその本を「売った」と言っていた。巡り巡ってこの古本屋にたどり着いていてもおかしな話ではない。僕は急いで『晩年』を棚に戻して雑司が谷の路地を駆け出したが、先刻の女性は下町のどこかに消えて、もう見つからなかった。

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