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ゴジラvsゴーヤvsマクドナルド

ゴーヤが好きな人類など、この世にいるはずがない。苦くて、ゴジラの皮膚を思わせる質感で、およそ褒められるべきところがひとつもない。

そしてマクドナルドが嫌いな人類も、この世にいるはずがない。栄養学を完全無視して幸福度を極限まで高めているのだから、嫌っているかのようなそぶりを見せている人は見栄を張っている。

以上二点が、数ヶ月前までの自分の見解だった。

ある日、いつも通り人間と遊んでいると突如マクドナルドが食べたくなってきた。学生時代にあのポテトのことを思い浮かべて猛烈な空腹に襲われたことのない人間がいるだろうか。人類の脳には黄色のMマークがついた起爆剤が仕掛けられており、一定条件下で作動するとマクドナルドが食べたくなるようになっている。

私は全人類にセットされたこの爆弾が偶然このタイミングで爆発しただけのことと心得て「マクドナルドが食べたくなった。よかったら昼ご飯はダブルチーズバーガーといかないか」と持ちかけた。すると人間は「ハンバーガーが食べたいって意味?マクドナルドじゃなくてもいいよね。あれは一番格下だからな。お菓子じゃん」と言い放った。

その瞬間に、圧倒的隔絶が発生した。

我々はおしゃれな商業施設を歩いていた。それが気づけばテキサスの荒涼とした砂漠にいて、大かんばつの影響か、二人の間には深いひび割れがある。

乾いた風に吹かれて語気が荒くなる。そうだ、日本には美味しいハンバーガー店がごまんとある。アボカドを丸ごと使ったものや、一口に収まりきれないボリュームのもの。だがそんなことは関係ない。議論の埒外にある。俺はハンバーガーを食べたいのではなく、マクドナルドの、あのバーガーが食べたいんだ。わかるか?わからないだろうな。交渉は決裂。考え方の問題だ。これ以上話したって詮ない。そうまくしたてながら俺はやつを置いて車に乗り込み…

ここまで2秒くらいで思考をめぐらせた。この世界にマクドナルドが好きじゃない人がいた。あまりの出来事に戦慄した。その人間と友好的に付き合っていくことはやぶさかではないが、一生涯の親友になることはないような気がした。それは一緒にポテトを食べたいからとかではなく、マクドナルドに対して「一番格下」という判定を下す価値観を持った人間とはいずれどこかで決定的に食い違う場面が発生する確率が高いから。

ある夏の日、行きつけのカフェに行くとカウンターにゴーヤが置いてあった。先述したように自分はゴーヤに対してマイナスイメージしか持ち合わせていないので、なぜそんなものを置いているのか尋ねた。20歳年上のマスターは「夏だから!ゆがいて炒めると美味しいからね」と言う。美味しいはずがない。味覚は生物の本能に基づいていて、甘味は生命維持に直結し、苦味は危険を知らせる機能として人体に備わった。だから苦味は全部悪だというつもりはないが、ゴーヤはいくらなんでも苦すぎる。

毒がありそうな見てくれの怪しい野菜を齧ってみると非常に苦い。最初にゴーヤを食べた人間はなぜこの段階で食用ではないと断定しておかなかったのか。

そう話すと20歳年上のマスターは笑顔で「美味しいけどな、ゴーヤチャンプル作ってあげようか」と言う。ゴーヤチャンプルはゴーヤさえなければ美味しい。居酒屋で誰かが頼めばゴーヤさえなければ美味しいのにと思いながら食べる。

ゴーヤときゅうりとズッキーニが並んでいて、どれかひとつ差し上げますと言われたらどうする?好き嫌いはあるにせよ、大多数の人間は確実にきゅうりかズッキーニを選ぶに違いない。ゴーヤを選ぶことはまずありえない。

そう話すと20歳年上のマスターは笑顔で「私はゴーヤを選ぶかも」と言う。その瞬間に数ヶ月ぶり二度目の衝撃が走った。この世界にゴーヤが好きな人がいた。あまりの出来事に戦慄した。

同時に、今の自分があのときマクドナルドを格下と言い捨てた人間と同じ位置にいることを自覚した。もしマスターが人間の判定基準に「ゴーヤを許容しているか否か」を採用していたとしたら自分はとっくの昔に見限られていることになる。深く反省した。ゴーヤにだって長所があるからこんなにも市場に出回っているのだ。みんなきゅうりとズッキーニが売り切れていたから仕方なくゴーヤを買っているわけではないだろう。

つまり自分はマクド大好きゴーヤ嫌いの子どもだということだ。

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