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ナイフで刺せばよかったのに

「もう時効だから言うんだけどさ」

先輩は人もまばらな平日夜のバーでそう切り出した。

「むかし女の子を曖昧な態度で傷つけて、それに気づけなくて、ある日おれの家で刺されたんだよね。ナイフで」

想像よりはるかに殺傷能力のある単語が飛び出してきて時効がどうこうの話ではないんじゃないかと思ったが、手のひらで刃を受け止めたときの傷跡を見せながら話す彼には定番のエピソードトークのようだった。

笑って相槌を打ちながら、ナイフは抜けるからいいよな、と的外れなことを考えていた。ナイフは抜けるし傷も癒えるが、言葉は抜けない。

自分は言葉ベースで生きていて、文字でも会話でも言葉を使うのが好きだし、感覚の言語化も得意な方だと思う。それをある時期は最悪な方向に活かして、大切な人ほど痛くなってしまえばいい傷ついて傷ごと一生忘れられなくなればいいと、的確に急所をつく言葉を選んで刺しまくっていた。

顛末は省略するが自分自身も常に満身創痍だったから、そうして手元に残ったものこそ本物だと信じて疑わなかった。言わずもがな、自分が傷だらけだから周囲の人間も傷だらけにしてもいいという論理は破綻している。

当時の自分の言葉がつくった無数の傷口を思って途方に暮れる。言葉の不可逆性を知っている今なら、口から滑り落ちる前に何度か確認するけど、それでも傷つけてしまうことだってある。どうせなら言葉じゃなくて、その子みたいにナイフで刺せばよかったのにと本気で考えた。

謝りたいとどれだけ悔いても、謝罪にはせいぜい炎症を抑える程度の効果しか見込めず、その上すぐ使わないと無意味だ。「あのときはごめん」なんてこちらが楽になりたいだけのエゴだからそれもできない。

一方で、先日あるきっかけで元バイト先の後輩に連絡をとった。

「君の新人研修のときに自分が何かを言って、その言葉を君が覚えていて、研修する側にまわったときに「先輩からこう言ってもらったからおれも後輩にそう言おうと思ったんです」って言ってくれて、すごく嬉しかったことを思い出したんだけど肝心の自分が君に言った言葉は忘れた」
「あーそれは覚えてますよ」
「なんのことか一瞬でわかりました」
「先輩とレジ入ってて、俺がお釣りを一円渡しそびれて、焦って渡してきて戻ってきて先輩に謝ったら大丈夫でーす誰でもありまーす。って言ってくれました」
「これほんと当時の自分には有り難すぎて、なんならガチで今でも使います」
「今でも使うし鮮明に覚えているのでなんのことか2秒で思い出しましたよー」

「大丈夫でーす誰でもありまーす」は何の変哲もないフォローというか普通のことを普通に言ったんだけど、当時の彼にはその何気ない言葉がなぜか刺さっていて、今でも使うくらい大切にしてくれている。発言それ自体よりも、4年前の一言を覚えている後輩もいるのだからいっそう言葉を軽んじてはならないと襟を正した体験の方が重要だった。

プラスにもマイナスにも永遠に作用させられるのなら、確実に前者で生きていきたい。

昨年11月のこの投稿をいまだに読み返しています、とメッセージをくれる人がひとりふたりではないことも、このnoteの読者が数人ではないことも、言葉でしか生きられないのだからできる限り齟齬のないものを選びとらんとする理由になっている。

言葉でもナイフでも刺せばよかったわけがない。

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