見出し画像

#084古文書講座での学び―研究者の常識、一般の常識(三)

 前回はしたたかな江戸時代の農民の姿を紹介しました。今回もそれに関連しての内容です。
 農民は年貢を米で納めると、小学校以来、社会科や日本史の授業で習ったことと思います。もちろんそれが原則ですが、前回も紹介したように、江戸時代の農民も現代の我々と変わらず、出来れば損をしたくない、出来るだけ収益を上げたいと考えていました。
 江戸時代は貨幣経済が広く普及した社会でした。そのため、年貢を米で納められて、それを給料として受け取る武士階級は、米の値段が上下することでその収入が大きく変わりました。というのも、武士階級の給料は「〇〇石」と表現されるように、給与の支給額が米の分量で換算されていました。そのため、米で支給される、あるいは生活するために米から貨幣に換金する際に、米価が変動すると手元に入ってくる貨幣の量が変化してしまいます。享保年間には8代将軍・徳川吉宗は米価の変動に腐心して、幕府の財政の立て直しを図ろうとしていたことからも、武士社会が米価によって大きな影響を受けていたことが判るでしょう。

 このような米価の変動に農民も注目しており、米価が上がった時に自前の米を売りさばき、米価が下がった時に購入するということをして、その差額を設けるということを行っていました。しかも、年貢を納める際に自前の米をそのまま年貢として納めずに、高値の時に一旦売りさばいて安値の時に購入して、その米を年貢として納入するということをしていました。これにより、少しでも収益を上げつつ税金を納めるという、現代でいう「節税」を行っていたと言えます。各地のいわゆる庄屋層の古文書を調査した際に、米の相場表が出てくることが良くあります。このような相場表を活用して、逐次米の価格を確認ながら売買することで、少しでも収益を上げようという努力を当時の農民はしていたと言えるでしょう。
 あるいは、寺院においても同様のことを行っていたところもあります。筆者の調査したある寺院では、所有地からの小作米がたくさん集まるところから、こちらも米相場を活用して高値の時に売払って、安値の時に買い入れるということを行ったいました。これは現在の株式の売買と同様のことと言えます。このような例からも、寺院も資産を上手く活用して、より収益を上げる努力を行っていた様子が見て取れます。

 このような手持ちの資産の運用以外にも、都市近郊農村の場合は米以外に畑で野菜などを栽培して、販売することで利益を上げることもしており、都市ごとのニーズにこたえて作物を作るという、地域的特色を表すことがあります。大阪近郊の農村では、河内国、和泉国では木綿、摂津国では菜種を作り、木綿は綿糸、綿布として衣類関係の商家へ、菜種は灯火に使用する菜種
油として油商へ販売し、都市住民へ流通しています。
 卑近な例を挙げると、大和国郡山藩領と河内国高安郡が挙げられます。まず、大和国の郡山藩領ですが、この地域は田畑を深く掘り下げると水が染み出てくるという土地柄から、田畑は土を一旦盛り上げて耕作するということをしており、その関係から、田畑の側に池が出来るようになっていました。そこでこの池を活用するために、金魚の養殖を行い、裕福な都市住民へ販売するということを行っていました。この金魚の養殖、販売は現在も続いており、関西では金魚すくいをイベントで行う際には郡山まで買いに行くというのが通例となっています。
 次に河内国高安郡の例を見てみましょう。高安郡は東高野街道が南北に通る地域です。東高野街道は京都と高野山を結ぶ街道で、現在の国道170号線とほぼ一致します(正確には旧国道170号線)。高安郡では、この立地を生かして、花卉栽培を盛んにしていました。というのも、東高野街道を北上して伏見に至ると、伏見には花の市場があったためです。高安郡から早朝に荷車に花を乗せて伏見を目指し、伏見の市場で販売して帰ってくる、ということが恒常的に行われていました。そのような影響もあってか、高安郡一帯は現在も都市近郊農業として花卉栽培を行っている農家も多く、関連業種として造園用の樹木の生産を行っている農家もあります。
 このように、都市近郊の農村部では、都市部のニーズを敏感に察知して、より高値で安定的に販売できる商品作物を作る努力を江戸時代からしていたことが判ると言えるでしょう。

いただいたサポートは、史料調査、資料の収集に充てて、論文執筆などの形で出来るだけ皆さんへ還元していきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。