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#146信仰とツアーリズム(四)―身近な史跡、文化財の楽しみ方(24)

 二〇二三年一二月に史跡見学会の講師の依頼を受け、石切から枚岡まで歩きましたが、今回は石切釼箭神社から枚岡神社までの道のりについて紹介します。 

 石切釼箭神社の一之鳥居を出て、東にある山側へと進むと、若宮公園が左手に見えてきます。この公園には若宮實祚社が敷地内にあります。この公園の前を東に過ぎ、少し北側の住宅街の中に入ると、夫婦塚古墳(神並五号墳)があります。この地域は神並古墳群と呼ばれる古墳が二一基も集中してある地域で、その中心的な古墳がこの夫婦塚古墳です。六世紀中ごろに築造された石室が二つある双円墳と呼ばれる形式の古墳です。
 こちらの古墳は、最初に下見に来た際には、あまりに住宅地の中にあるので、全く見つけることが出来ませんでしたが、そのくらいに住宅地の中に突然と古墳が現れます。こちらを見学の際には、住宅地の真ん中にある古墳なので、近隣への配慮が必要になります。

南側の道路から見た夫婦塚古墳

 ここから近鉄奈良線の額田駅付近まで南へ進み、額田駅の奈良側の踏切を越え、さらに山際の道を南へ進むと枚岡神社の二之鳥居に辿り着きます。
 枚岡神社は、延喜式神名帳にも記載がある神社で、神社の所在する地域である河内国の一之宮に指定されている神社です。枚岡神社は、奈良市にある春日大社を設置する際に枚岡神社の祭神が春日大社に勧請されたことから、元春日とも呼ばれています。
 二之鳥居の側にある標柱には「官幣大社枚岡神社」と表に記されてあり、北側面には「故内大臣正一位大勲位公爵三条実美書」とあります。三条実美は明治維新の際に活躍した公家として知られていますが、明治二四年(一八九一)に亡くなっており、その際に「正一位」の位を授かっています。枚岡神社は、河内国の一之宮ということで、明治維新の際の最も位の高い公家に神社の名前を書いてもらうことが出来たのでしょう。

 『河内名所図会』では、現在の二之鳥居の位置が右ページの外側に相当し、そこから東側の景色として、拝殿、本殿が描かれています。ページ中央に描かれている鳥居が現在も拝殿の前に残っており、二つ描かれている石段が現在は一つに繋がって長い石段になっています。参道の左右に描かれている建物も、社家の家や宮寺などであり、現在はありません。

枚岡神社(『河内名所図会』巻五)

 二之鳥居をくぐり、東側にある拝殿の方向へ坂道を進むと、左右に玉垣が並んでいます。それぞれの玉垣を見ると、豊浦、四条、五条、喜里川、布市などの枚岡神社の近隣の集落の名前が数多く刻まれています。これを見ると、枚岡神社は非常に規模の大きな神社ではありますが、地域の崇敬を篤く受けている神社であることが判ります。前回「#145信仰とツアーリズム(三)―身近な史跡、文化財の楽しみ方(23)」で紹介した石切釼箭神社は、大阪電気軌道の敷設によって大正期以降に遠方からの信心を集めた神社であると評価しましたが、枚岡神社は、地域に根差した神社であったことが読み取れます。枚岡神社、石切釼箭神社の双方とも、枚岡駅、石切千手寺前駅と、大阪電気軌道の駅を近隣に備えた神社であるにもかかわらず、異なる発展を遂げてきたことが非常に興味深いです。

 今回はここまでとしまして、次回は枚岡神社の境内の中から南隣にある梅林にかけてを紹介したいと思います。

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