小学3年生のとき、夏休みの自由研究をがんばるのをやめた
最近赤ちゃんが生まれたせいか、忘れていた小さい頃の出来事を思い出すことがよくあります。
小学3年生のときのこと。夏休みに「シャボン玉の研究」をやりました。
どういう研究かというと、お風呂でいろんな種類の石鹸やシャンプーでシャボン玉を作って、その模様をイラストに描いて比べるというもの。違う模様が出てくるのが楽しくて、夢中で描いていた記憶があります。
これ知ってる人あんまりいないと思うんですけど、シャボン玉って最初虹色じゃないですか。あれ、ずっと放置しておくとドロドロに濁ってきて茶色とか黒になっていくんです。
べつに意味はないけれど、そういう発見がただただ楽しくて。
夏休み明けに発表したらクラスのみんなもおもしろがってくれて、たしか人気投票で一番をとって、子どもなりにすごくうれしかった記憶があります。
その投票のあとで、担任の先生が誰に言うわけでもなく、ぼそっとこう呟いたんです。
「もっと役に立つことをやればいいのにね」
……めっちゃその通りだなぁ。そのときは心の底から本気でそう思いました。
だけど次の年から、私は自由研究を「手抜き」するようになったんです。
紙粘土でテキトーに工作したり、風景画を数時間でパッと描いてそのまま提出したり。
6年生のときなんて、テーマが2つ与えられたのに最終週まで手をつけられなくて、けっきょく1つしかできなくて「どちらか選ぶものだと思ってました」なんて言い訳していました。
べつにわざとサボっていたわけではなくて。なんかその頃から、興味にまかせて自由に『研究』することが億劫になっていたような気がします。
そこにはいろいろな理由があったと思うのですが、いま思うと小3のときの「もっと役に立つことをやればいいのに」という言葉が、心のどこかで引っかかっていたのかもしれません。
その先生はおばさんとおばあさんの間くらいのベテラン先生で、べつに嫌いだと思ったことはありませんでした。普通に子ども思いのいい先生だったと思います。
「もっと役に立つことをやればいいのに」という言葉も、本当に悪気のない、素直な感想だったんだと思います。実際マジその通りですし。
でも何の役にも立たない「シャボン玉の研究」が、6年間の夏休みの宿題でいちばん楽しかった。
こじつけかもしれないけれど、この言葉を何十年も経ってから突然思い出すということは、それなりに自分に影響していたのかなぁと思ったりします。
子どもが夢中になっていることが、大人の何気ないたった一言で冷めてしまうかもしれない。とても難しいことだけれど、子どもへの一言には本当に気をつけたいなと思いました。
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