ささやきの森|ショートストーリー

深い深いどこまでも続いているような森を、
ぼくは歩いていた。

深呼吸をすると木や土や雨の香りが肺に満たされてゆくのを感じる。歩みを進めるごとに地面に落ちた木たちの乾いた葉たちがサクサクと音を立てていく。まっすぐ続く並木道の先には明るく大きな月がひっそりと浮かんでいる。

どんな生き物でさえ、眠りにつくような真夜中。
微かに草木を揺らすのはきっと彼らの寝息だ。
一見、寒さで身が縮むような景色も、実は誰かのあたたかな寝床であるのかも知れない。

足元を見ると何層にも塗り重ねられたかのような色づいた葉たちが、まるでプールのように敷き詰められている。
目を凝らして先を見つめても深い深い森しか見えない。遠くなる程ぼやけ、まるで終わりのない万華鏡のようだ。そこでぼくはいつもハッと気がつくのだ。

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その森は、雪深い祖母の家の部屋にいつも飾られていた。ただそこに佇んでいる森を描いた画家は、もう亡くなってしまった祖父だ。
いま、彼の作品は何点か美術館という場所にいる。
彼はぼくが生まれた日に息を引き取ったと聞いている。だからぼくは彼が一体どんな手をしているのか、どうやって考えるのか、どんな声で、どうやって話すのか知らない。

都会に住んでいるぼくは、ほんとうに深い森というものを知らない、と思う。
ぼくが生まれる少し前に描いていたのが、この森のようだった。

この森を抜けた先に彼はいるのだろうか。
この森は一体どこにあるのか。

まるで森への扉のようなその絵を、ぼくはいつまでも眺めていたいと願っていた。


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