電話

 せわしなく急ぐ人たちの波。後から後から決して途切れることなく人がやって来る。どこからやって来て、どこに向かうのだろう。その先には何があるのだろうか。東京の真ん中で僕は耳に携帯電話を押し当てていた。

 目の前では若い女の子たちが再会を祝して抱き合っていた。小走りで勢いよくお互いに近づいてぶつかり合うようにして抱き合う。なんて熱烈なんだろう。あんなに何にも考えていない時代がこの僕にもあったのだろうか。もしあったとして、それはきっと白亜紀のことに違いない。足元に落ちているゴミをつま先で蹴った。彼女たちから目を外して、その先にある洗練された光を放つブティックと彼女たちの間を睨みつける。

「なんだかね、無性に悲しいの」電話の向こうで彼女が言った。
 僕の体のどこかにあるスイッチがパチンと音を立てて倒れた。OFFからON。その途端、腹の奥底から何かが湧き上がってくる。感情というより衝動。僕は対処に困った。
「上手くいかないことばっかりなんだもん」と彼女はつづけて言った。
「そんなことないさ。それは君の考え方の問題だよ。少し見方を変えてみた方がいいと思う」僕は言った。
「えっ…」彼女は戸惑った。
「例えばさ、こんな風に考えてみたらどうかな。一人の人間が経験する不幸の総量は生まれる前から決まっていて、嫌なことや上手くいかないことがある度に、これから体験しなければならない良くないことが減っていくんだ」僕はまくし立てるように言った。
「それはこれから先の未来、いいことの方がたくさん待っているとか、そういうこと?」
「そう、そういうこと」

 二人の間の沈黙。
 街に溢れる騒音。

 その狭間に取り残される。五秒十秒十五秒それ以上、時間が僕を通り過ぎていく。老いぼれた亀のようにゆっくりと。僕は段々と居心地が悪くなる。顔の両端から眉間に皺がよっていくのがわかる。沈黙に耐えられず、僕はベンチから立ち上がり当て所なく歩き出した。街にはネオンが煌めき始め、騒々しさは増すばかり。会社から解放されて酒を求め急ぐサラリーマンの群れ。群れ。群れ。しかし依然として、携帯電話は強情にも沈黙を貫いている。その向こう側では一体なにが起こっているのだろう。次第に手がピリピリと痺れ始める。まったく。
「もう切るよ」

 沈黙。

 じゃあね、と言って電話を切る。耳から離した携帯電話は死んでいた。本当はもう少し前から、死んでいたのかもしれない。彼の死亡推定時刻は夜の街の喧騒に埋もれていった。

 わざと人気ない道をえらび遠まわりをして駅へと向かう。冷たい風が吹きつけ、熱くなった頬にはぴりぴりとした痛みを感じた。足元からふと目をあげると、数メール先に虎猫が座っていた。その顔には怯えが張りついている。近くにつれ怯えの色がいちだんと濃くなる。小刻みに震えているようにさえ見えた。首輪がついていて迷子にでもなったのだろうかと思った。あと数歩の距離まで近づいた時、さっと身を翻し壁を乗り越えてどこかへ消えてしまった。僕はその猫が飛び越えたところまで歩いていって、そっと壁に触れてみる。

 その壁の冷たさは、彼女との出会った日のことを思い出させた。

 肌寒い夜だった。僕は大学のベンチに座っていた。ズボン越しにでもひんやりと冷たい。新歓コンパの待ち合わせをする人の群れを眺めていた。受験勉強からの解放と新しい生活への期待が入り混じった空気が満ちていた。僕はその輪に入れず、ジャケットのポケットに手を突っこんで煙草を吸っていた。
「ここ、いいですか?」髪の長い女の子が声をかけてきた。「も、もちろん」僕は戸惑い気味に答えた。いちいちそんなことを聞かれるなんて思ってもいなかったからだ。公共のベンチなんだから好きに座ればいい。そういうものだ。
「みんな、楽しそうですね」彼女は口の前で手をこすりながら言った。「あぁ、そうですね」僕は賑やかな人の輪に目をやりながらそう答えた。「私、こういう場所苦手なんです」

 その時、幹事であろう爽やかな男性が声を張りあげて言った。「だいぶ揃ったみたいなんで移動しますね〜! 僕らについて来てくださ〜い!」彼女との会話はそれきりになった。いかにも学生の溜まり場になりそうな居酒屋へと移動して、それほど酔っぱらうこともできず、顔と名前が一致しない同級生と先輩たちの会話に合わせて時間をやり過ごした。居酒屋の外では二次会へ移動待ちの人だかりができている。その周辺だけ酒気と期待が混じり合って夏のような熱気が漂っていた。居酒屋そばの壁にもたれかかる彼女を見かけたが、少し目を離した次の瞬間には姿を消していた。

 その日を境に、授業で顔を合わせると挨拶を交わすようになり、休み時間に話をするようになり、一緒に学食に行ってランチをするようになった。

 はじめて彼女の家に行った日。頭上には雨が迫っていた。夕方の空をより一層暗く塗りつぶしている。
「いらっしゃい。遠かったでしょう。そこのソファーに座ってちょっと待ってて」そう言って彼女はキッチンへと引っこんだ。僕は遠慮がちに部屋を見渡すと、有名な文学者たちの名前が並んだ本棚を眺める。しばらくすると、小さな皿の上に乗せた白いティーカップを両手で運んできて僕の目の前に置いた。まるで心をこめて選んだクリスマスプレゼントでも渡すようにして丁寧に。断面が綺麗にカットされたレモンとミルクが添えられている。小さな机に並べられた紅茶のセットはひときわ美しく、大学生一人暮らしの部屋には似つかわしくなく妙にちぐはぐな印象を受けた。彼女はもう一度キッチンに戻って自分の分の紅茶を入れて戻ってきた。

 雨が窓を叩く音をバックミュージックにして彼女が言う。「今日は何の授業を受けてたの?」僕は答える。「確か政治哲学と文学教養だったかな」彼女は言った。「そういえば私、本当は文学部に行きたかったの。でも、お父さんから反対されて…政治を専攻することにしたのよ。中学生の頃からロシア文学が好きでね、特にチェーホフのアニュータという話はどうしても忘れることができないの。すごく惨めで哀しい女性の話なのになぜだか心を惹かれてしまう。S極に引っぱられてくっつくN極のように。そういうのって、わかる?」
「えっ、あぁ、うん」とっさに答えた。しかし、何が楽しくてかわいそうな女性の話を読まないといけないのか、僕にはわからなかった。文学の話はそこで終わった。その日のことで覚えているのはチェーホフのアニュータの話と、紅茶を三杯飲んだあと彼女に告白をして付き合うことになったという話のふたつだけだ。

 僕らはできる限り同じ授業を受けるようにした。週にきっちり四回彼女の家に行った。彼女も僕もサークルにも入っていなかったから、気がつくと学生生活のほとんどの時間を共に過ごしていた。ある時は両親のせいで第一希望の大学に入れなかった理不尽な憤りについて話し、またある時は現在の社会システムによって割りを食っている人たちの行き場のない悲しみについて話をした。こんなに気があう人とは出会ったことがないな、彼女の家で紅茶を飲みながらよく思った。

 彼女と付き合い始めて一年が過ぎたある日。夕暮れ迫る街の片隅にある古い喫茶店の深い色をした木製の椅子に腰掛けていた。聞き覚えはあるが誰の曲かわからないジャズが控えめなボリュームで流れている。僕はチェーホフのロスチャイルドのバイオリンを読み終えた。意地が悪い偏屈爺さんの人生の幕が閉じる時、彼が取った行動について考えをめぐらせた。コーヒーメーカーで豆が砕かれる音が店内に響いた。そして冷めたコーヒーに口をつけた時、彼女と付き合うことになった日の言葉が急にリピート再生された。

「チェーホフのアニュータという話なんかはどうしても忘れることができないの。すごく惨めで哀しい女性の話なのになぜだか心を惹かれてしまう。S極に引っぱられるN極のように。そういうのって、わかる?」

「それすごくわかるよ。けどさ…」短い彼女の質問に対する僕の回答には確かな反論の思いが含まれていた。残りのコーヒーを一気に飲み干した。マグカップを手元の皿の上に置くと、カチャンと心細く音を立てた。僕は立ち上がり会計を済ませて、古くて重厚な木製ドアを強く押した。外から冷たい風が吹き付けてくる。すっかり夜に様変わりした街へと踏み出した。

 目の前には忙しなく急ぐ人たちの波。後から後から決して途切れることなく人がやって来る。どこからやって来て、どこに向かうのだろう。その先には何があるのだろうか。そんな東京の真ん中で僕は耳に携帯電話を押し当てた。

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