お父さんのマグカップ 【一駅ぶんのおどろき】

 いつの頃からか父のことが嫌いになった。高校生のときにはほとんど口もきかなかった。仕事で遅くなる日は、一緒に食卓を囲まなくてよくて、ホッとしたのを覚えている。中学生の頃はどうだったんだろう。まだ嫌いじゃなかった気はするんだけど、うーん……父の記憶があまり見つからない。それから21年の月日が流れた。

 いまのわたしは、もう二児の母親。朝起きたと思ったら、今日が終わっている。育児に家事に、、忙しさに追いかけられてヘトヘトになって、また朝を迎える。そんな毎日の繰り返し。「わたしだってもっと輝きたい!」なんてキラキラした思いは、とっくの昔にクローゼットの奥の端っこにしまい込んだ。でもときどき眠れない夜があって、どうしようもなく虚しくなってしまうことがある。「わたしはいったい何をしているんだろう」

 いま父は、仕事が上手くいかなくなって、タクシードライバーをしている。らしい……。というのは、兄がときどき会いに行くくらいで、わたしはもうずいぶんと顔も合わせていない。お母さんが亡くなって、久しぶりに父に会うことになった。地元では名の通った会社を辞めて、自分の腕一本でバリバリと稼いで自信満々だった父の面影はなく、痩せ細って疲れ果てているように見えた。

  「元気でやっているのか?」「まぁ、それなりに」「だったらいい」十数年ぶりの親子の会話は、たったの一往復半で終わった。粛々と葬儀は執り行われていき、父とは口をきかないまま一日も終わりを迎えようとしている。わたしと違ってしっかり者の兄の仕切りで、参列くださった方々へご飯が振る舞われた。

 こういう場が苦手なわたしは端っこの席で食べていると、顔に見覚えはあるが名前の出てこない親戚の伯母さんから話しかけられた。「お父さんのことよろしくね。さみしくなるだろうからねえ」わたしはうやむやに返事をして、居心地が悪くなって目線をよそに外した。人の集まりからすこし離れたところに父がポツンと座っていた。背中をまるくして台所のほうを眺めていた。

  「そういえば、あの人……」伯母さんの声にひっぱられて、慌てて視線をもとに戻した。「いつだかに買ったロイヤルコペンハーゲンのティーカップじゃなくて、あなたが小さいときに作ったマグカップで珈琲を飲むのが好きなんだ、って言ってたよ」けっきょく最後まで父とはろくに話さなかったけど、むかし好きだった紙粘土を買って家路に着いた。

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