見出し画像

嘘つきなアフリカ人ー”約束を守らない”文化の考え方ー

アフリカ人はめちゃくちゃカジュアルに嘘をつく。

「バス?1時にくるからそこで待っときな〜」
来ない。

「明日の朝仕上がりますから取りに来てくださいね」
できてない。

「ここで11時に待ち合わせね!」
3時間経っても現れない。

「水は明日には出るようになるよ」
⇨4ヶ月経っても出ない。

これで責めると、めちゃくちゃぽかんとされるか、ものすごい勢いで言い訳をし始める。「道が混んでてさ」「電気がなかったから機械が動かなかったの」「頼んではいるんだけどね」等々。絶対に自分に非があるとは認めないアフリカ人たち。

ジンバブエに来て半年。この文化が非常に不思議だった。じゃあなんで約束するようなことを言うのか。そんなこと言わなければいいじゃないか!

近隣国に行っている協力隊の同期に聞いてもだいたい状況は同じ。アフリカ人は嘘をつく、または約束を守らない、というのは日本人の共通見解のようだった。

*嘘をつく、とここで書くのは、彼らアフリカ人もわたしたちを騙しておとしめんとしているわけではなく、また進んで嘘をつこうとしているわけではないということを最初に伝えておきたい。もちろん、詐欺や盗みのような犯罪はあるけれど、そういったものとは今回の記事の内容はちょっと別の話である。

今回は、アフリカ人はなんで嘘ばかり言うんだろう、と考え続けたわたしの思考の軌跡をご紹介したい。世界からすると、日本人がこんなにもきっちり約束を守る方が不思議なのかもしれない、ということも含め、日本人の読者の方に彼らの文化をご理解いただけたらと思う。

本当のことを言わないといけない範囲がかなり狭い

まず最初に感じたのは、「あ、この人たち適当にしゃべってるんだな」ということだった。人にもよると思うけれど「今度〜〜しよう」ということが実現されたことはほぼない。「今度Madora(虫料理)作って持ってくるから!」と一生言ってくる同僚がいるが、典型的である。この手の話だと5分後には忘れていて、私をみるたびに思い出すんだろう。このくらいなら日本でもときどきある話な気がする。要は高田純次である。全体的に男女関係なく、アフリカ人は高田純次ばっかりなのだ。

上記の話はプライベートなのでまぁいいが、ちょっと仕事っぽくなっても口約束は口約束でしかない。例えば「明日朝9時に仕上がりますから」と言われたPCの修理が、「やっぱできなかったからまた来週連絡するね」という連絡が次の日の朝に来たりする。日本だとこの辺りから「おい、嘘をつくなよ嘘を」となるけれど、彼らにとってそれは嘘ではない。期待を適当にしゃべっているだけである。

要は日本よりも適当にしゃべって良い範囲がかなり広いのである。これが、日本人からすると「嘘をつかれた」ように感じる理由かなあと思う。

日本だと、適当に話してそれが実際には違ったりすると、「一回お前はこう言ったじゃないか!」と責めるようなことはたびたび起きる気がする。例えば、問い合わせの電話で適当にホテルの値段を伝えてしまって、それが実際よりも高かったらクレーム案件だろう。でもこれは日本人の相手への信用の高さの裏返しとも言える。日本人は怒るほどに相手を信用しているのだ。

ここだと聞く側の期待値や相手への信用も低いので、全員が本当のことを言わなくても誰も「こう言ったじゃないか!」とは責めない。たとえ責めてもあーごめんね、これこれこういう理由があって、、と言い訳をすればそれで済んでしまう。「全員で適当に喋ろうね」という共通認識があればそれで社会は回るんだなあという感動すら覚える。

言い訳できてしまう社会、ということもある。停電も断水も当たり前。ほかにもいろいろな理由があって、やりたいと思っていたことが突然できなくなるのがアフリカ。日本人からするとそれも見越して時間計算して出直してこい!という話で、不可能ではないはずなのだけれど、みんな絶対にそこまでは考えない。

「約束を破ったら信用がなくなる」という考え方はないのか?

「約束を破ったら信用がなくなる」という考え方が、日本では普通である。特に仕事だと、締め切りを守れなかったら、別の会社に取引先を変えられてしまう。待ち合わせに遅れたら、相手の時間を奪っているという考え方も一般的だ。

けれどここでは不思議なことに、誰かが時間に遅れても、誰かに約束を守られなくても、大して文句も言わずに日常が過ぎていく。いや、文句はこそこそ言っているかもしれないけれど、日本のように大々的に文句を伝えて大ごとになることは本当に少ない。

そして、約束を破ったとしても破った側は平然とした様子でまたわたしの前に現れる。「何も悪いことなんてしていないですよ!」という面持ちで、フレンドリーに挨拶もしてくる。こっちが拍子抜けしてしまう。

約束を守ってもらいたかったら繰り返し言う、というのはこちらの人も普通で、基本的に約束は忘れ去られるもの、という認識らしい。仕事をしてほしかったらしてもらえるまで繰り返しアピールする、というのが普通で、そうでなかったら”仕事”でさえ忘れてもいい、というのがこの世界の常識なのである。

わたしのルームメイトも、家(教員寮)の前に除草剤を撒いてほしい(撒いてもらわないと草が茂って歩けたものではなかった)、という仕事を学校の用務員さんに頼んでいたのだけれど、「今日来ると言ったのにまた来なかったわ、また言いにいかなくちゃ!」と1週間くらい繰り返していた。まったく、気が長くないとやっていけない世界である。

また、締め切りを守れなかったら別の会社に変えられてしまう、というのはこっちの世界でもありそうなものだし、実際に発生しているとは思う。例えば、学校のWebサイトが壊れてしまったのだけれど、こっちのスタッフ間でさすがにサーバー会社を変えるという話にはなっている。

だが、替えがきかない会社もあって、そういうところは強気に出ている。例えばこの国の水道会社はよく約束を守らない。その裏には、水道会社の独占という問題も潜んでいる。つまり、国有企業でほかに類似サービスがないのでその会社を頼るしかなく、私の任地のように4ヶ月間水が出なくてもそこに頼み続けるしかない。これは学校側もほとほと困った顔はしていて、よくみんなで「Paka ipa(パカイーパ:参ったなぁ)」と話している。

待ち合わせに遅れたら相手の時間を奪っている、という感覚もない。待っている方は辛抱強く待っているように見えるけれど、とくに我慢しているというふうでもないし、遅れて来た相手にきたわね〜と笑顔で会話している。日本よりも確実に、時間がゆっくり経過していて、自分もたっぷり時間があるので、これでできなくなったことは明日やればいいや、という考え方な気がする。ゆとりがあるのはいいことだなあと思いつつ、それで急ぎの仕事がどんどんと遅れていくのは解せないポイントではある。

ちなみに、わたしは社会人向けの専門学校にいるけれど、学校では時間を守らせようとする先生もいる。授業に時間通りに来ることは大事で、遅刻したら遅刻で点数を引いてつけますからね、と口酸っぱく言っていた。けれど自分は学生との約束は平気で破って、いると言った時間にはもう帰っていたりするから、なんだかなあ〜と思う。

「約束をすることと、約束を守ることは別概念」!

なんでこんなに約束を守らないで平気なんだろう、、と思って色々と調べていたら、こんな記事を見つけた。

約束することと、約束を守ることは別なのだという! 日本人からしたら意味がわからないかもしれないけれど、これは確かに!と、かなりしっくりきた。ここの人たちにとっては「約束」はただのその場をプラスに動かすためのリップサービスでしかなくて、「実際にできるかどうか」は約束した時点では考えていないのである。後述するけれど、アフリカ人の時間の捉え方も関係している。未来なんてお構いなしに「今」を生きるアフリカ人がよく出ている。

「できない約束はするな」と教え込まれている日本人からすると、この辺りは本当に意味がわからない。けれど、アフリカ人からすると「日本人ってそんなに先のことを考えて生きてるの??本当に??」ということなんだろう。

また、そもそもプライベートであんまり先の約束をしている人を見ない。例えば日本だったら、来月のこの日、何時に、このお店に、みんなでご飯に行こう!という計画は普通にある話だ。人数が多いときなど、場合によっては半年後に約束することもゼロではないだろう。けれど、アフリカ人同士でそんな約束をしている人を見たことがない。そんな発想にもならないのだ。「明日空いてる?」とか「今週末飲みにいくからどう?」くらいなら聞いたこともあるけれど、そこにも例えば、5人で約束をしたとして全員が全員、5人くるとは思っていないし、自分も確実にいくとは思っていない、ような感じがする。

時間にルーズな国、厳しい国

世界的にみても、時間にルーズな国と厳しい国の差はあって、それは生活環境や歴史にも起因しそうだ。

下記の記事では、ルールに厳しい国はその国が経験した「脅威」に比例するという仮説研究をもとに、「タイト文化」と「ルーズ文化」の差について論じている。

インドがタイトというのがあんまり実感がないけれどそうなんだろうか?笑

この研究ではアフリカに言及していないけれど、なるほどなあと思う部分も多い。

日本は災害も多く、協力しないと生きていけない。冬は寒く、夏は暑い。時間を守り、秩序を守らないと大変なことになってしまう。約束は食べ物を確保するために、暖かい家を手に入れるために必要なことで、それが破られると社会が崩壊してしまう。生きるためにある程度信用し、信用されないといけない。

対して、アフリカや中南米だと、気候がよくて放っておいても食べ物が育ち、多少秩序がなくとも困らない。時間を守らなかろうが、シェア文化が発達していて食べ物は分けてもらえる。多少のことでは死ななくて済む。

また、日本でも沖縄タイムがあるように、暖かい場所の方が時間にルーズだというのは馴染みがある話ではある。ここも今は冬で朝晩は寒いけれど、日本の冬まではいかないし、基本的に温暖で過ごしやすい。

明治時代の日本も、たとえば元農民には、定時に出勤する、という文化が根付くのに10年かかったという話も聞いたことがある。日本も昔はこうだったのだし、アフリカも100年後には変わっているんだろうか、と想像しないこともない。

時間を守ることが失礼

時間をきっちり守ることが失礼に値する場合もあるらしい。日本人からするとなんじゃそりゃ、という感じだけれど、こちらでは待ち合わせ時間ぴったりに行くことと、出されたご飯を全て食べ切ることが失礼に値するのだという。世界にはいろんな文化があるなあと改めて思う。

待ち合わせ時間(より前)についてしまうと、相手を急かしてしまうことになる。ご飯を食べ切ってしまうと「足りなかったかなあ」と思わせてしまう。時間を少し過ぎて行って、ご飯は少し残すのが礼儀なのだという。

ちなみに、「日本だと米粒ひとつ残しても怒られるんだよ!」と伝えると同僚は目を丸くしていた。「戦争もあって、食べ物が貴重な時代が長かったから残してはいけないんだ」と言うと納得してくれたようだった。アフリカではたぶん、気候もいいので食べ物は豊富で、その辺になっている実や適当に育てたメイズでどうにでも生きられる。食べ物がめちゃくちゃ貴重という考え方はないんだろうと感じた。

アフリカの時間感覚: 未来が存在しない!?

アフリカ人は「今」を生きている、とよく言う。日本人は未来を考えて逆算した現在を送るけれど、アフリカ人は未来を考えず、今を最大化するために生きる。今良ければいい、明日のことは明日考えればそれでいい。究極のその日暮らし。

真木悠介『時間の比較社会学』のなかにこんな一説がある。

「アフリカ人の伝統的な観念によれば、時間は長い「過去」と「現在」とをもつ二次元的な現象であり、事実上「未来」をもたないのである。西洋人の時間の観念は直線的で、無期限の過去と、現在と、無限の未来とをもっているが、アフリカ人の考え方には実際上なじみのないものである。未来は事実上存在しない。未来の出来事は起こっていないし、実現していないのだから、時間を構成しえないのである。……現実の時間とは、現在のものと過去のものである。時間は進むというよりもむしろ退くものであり、人びとは未来のことを思わず、すでに起こったことがらを思うのである。」

真木悠介『時間の比較社会学』(岩波文庫)

そもそもアフリカ人には「未来」の概念がないというのが衝撃的だった。でも、そう考えるといろいろと合点がいく。なぜ約束が守られないのか。なぜこんなに計画ができないのか。なぜこんなにも未来を放置して生活できるのか。そもそも時間という概念に、先のことが登場しないのである。

そしてここまできてわたしはやっと気がついた。ジンバブエ人に嘘をつかれた、とわたしが感じているときは全て、発話時から比べて未来のことを言っているときだった。さすがに彼らも過去のことで嘘はつかないらしい。

「アフリカ人には未来の概念がない」ということに関しては、良い面も悪い面もあると思っている。良い面としては、日本人が忘れがちな「今をたのしむ」という考え方を体現していること。悪い面としては、いつまでも貧しく、理想だけは高いまま、何も変わらないでずっと進んでいけてしまうということ。

たしかに、彼らは今を楽しんでいる。先に対する重たい不安は微塵も感じない。もしかしたらあるのかもしれないけれど、このインフレが続くジンバブエで日々笑い、働き、家族と手を取り合ってその日その日を生きている。

けれど、彼らもインターネットの普及で海外やリッチな人の良い暮らしは知っているはず。「貧しいことによって選択肢が減っている」ということは体感としてあるはずなのだ。また、特に学校では仕事のやり方を近代化したいという声もある。そんな中、計画をして未来のことを考え、進めていくということができなかったら、いつまでもその場凌ぎの施策しかとれず、なにも成長できない。

わたしはアフリカには馴染みきれないなあと思うのはここである。わたしも日本人の中ではあまり先を考えない方ではあるけれど、でもさすがに3年後のことは考えたい。約束はもう少し守られる世界の方が快適だし、時間感覚も違いすぎる。わたしには成長したいという欲求もまだある。

一方で、日本の今の標準とされている「約束を守る基準」のようなものが本当に必要かどうか、は再考の余地があるのかなあとは思う。

電車が1分遅れたからって謝る必要ある?
電波障害が起きたからって、社長が大々的に謝罪する必要は本当にある??
締め切りって、寝ないで体壊して仕事するほど大事???

今後帰国し、日本や日本の企業を相手に仕事をすることもあるだろうけれど、アフリカで学んだマイペースさをうまく取り入れて働いていけたら、幸せ度がちょうど良くなりそう、と思ったりはしている。
やりすぎには要注意!笑

わたしの適応の過程

私もこの世界にいるとある程度適応せざるをえない。だんだんと慣れてきた感じがしている。

まずは時間を守られなくてもイライラしなくなった。10時に出るよ、と言われた車を待って学校の硬いベンチで3時間経過したときはさすがにお腹も空き、お尻が痛くて参ったけれど、基本的に待ち時間に対応できるように、スマホにKindleの本や動画をダウンロードして、オフラインでも暇つぶしができるようにしてある。

その次に、やってほしいことがあったらしつこく言うことに慣れた。ジンバブエでのわたしがいる教員養成校では3回言いに行くとだいたいやってくれる。生活のための100ℓの水を毎週頼んでいるのだが、毎回こうなのはちょっと面倒ではある。これは国内でも同僚の教育レベルや性格によって差があるし、またアフリカの他の国でも違いそうである。

そして現段階で、たぶんわたしもジンバブエ人との会話の際は相当適当なことを話してしまっている気がする。「明日またくるね」とか、「あーまたこんどね」とか、適当に流すことも増えた。なんせ、彼らも私が言ったことはあんまり覚えていないのである。大体の初対面の印象でずっと話されている気がする。こっちはあんたが何言ったか覚えてるけどな、、と思いながら、最近はもう適当に話している。

ときどき、日本人と話す時には、「ちゃんとしなきゃ!」と意識するようにしていて自分でも笑う。そうだった相手日本人だった、時間守んなきゃ!という感じ。自分の中に2人格いる感じにして使い分けている。

終わりに

アフリカに来たら誰もがぶち当たるであろう、「アフリカ人嘘つき問題」について私なりの解説をしてみた。なかなか最初は戸惑うし、特に仕事がうまくいかない大きな理由ではある。わたしも自分の協力隊活動は正直難航している。

実際に住んでみると、イライラすることは思ったよりも多い。けれど、世界は広い!というのを身をもって体験できているような気はして、とても良い経験にはなっている。いろいろな人を理解するためには、いろいろな文化やその背景を知ることが第一歩。今後も現地人とのコミュニケーションを楽しみながら、いろいろ探ってみようと思っている。

▼筆者によるジンバブエのレポート集はこちら。

もしよろしければサポートお願いいたします。 いただいたサポートは新たな旅の資金とさせていただき、新しいnote記事のための経費とさせていただきます。