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調査を仕事にする者として

マーケティング・リサーチ、いわゆる生活者調査を20年ほど仕事にしてきた上で、僕自身が常に頭の片隅に置いておきたいと思うことが2つある。

1.見る対象はデータではなく「人」

2.解釈するのも「人」

それぞれ考察してみようと思う。初めに言っておくが、考察の先にあるものはビジネスノウハウやTipsではなく、個人的な哲学だ。それはもしかすると、諦めや絶望に近いものかもしれない。


見る対象はデータではなくて「人」

定量調査(アンケート調査)の一般的な思考法としては、データ集計などの工程を経て、「30代男性」「◯◯高関与層」「X/Y/Z世代」といった形でN=XXのターゲット(あるいはノンターゲット)集団に括ってデータの傾向を解釈する。

勿論、定量調査は十分なサンプル数を確保した上で量を測る調査。N=XXは別のN=YYの集団に対してこういった傾向がある、ということを数字を用いて示すことが目的だ。中心極限定理を勘案して最低でもN=30以上の集団としてデータを扱い、認知率◯%、重視点トップは「~~」、イメージとして「~~」といった印象を持たれている、といったことをデータの傾向として読み取る必要がある。

結果、N=XXの回収データは、その分析過程で生まれたとある集団を代表する意見、傾向として解釈されることになる。それはそれで重要な示唆が導かれることもあり、定量調査としては何も間違っていない。

だが、気を付けなければならないのは、それが「30代男性」「◯世代」などというデータ集合体、いわば想像上のペルソナを前提として論じることの危険性だ。「平均的な30代男性」というのはこの世に存在しない。データだけを見ていると、世の中に存在しない何者か、についての机上論を展開するだけになりがちだ。

データを形作っているのはN=1のたった一人の人。その集合体を語る意味は定量調査の文脈ではアリだが、それは対象となった一人ひとりのサンプルの傾向ではない。平均的な何かを想定しての論には意外な発見というのは少ない。たぶんこうなるだろう、という仮説が立証されてめでたしめでたし、が関の山だ。

データの向こう側にある「人」を意識するのは、集計分析工程においてはなかなか難しいことだが、N=1の態度・意識・価値観に思いを寄せられるかどうかが、良質な調査アウトプットを呼ぶ源泉と言える。定量調査に加えて定性調査を重んじる動きがここ近年活発なのは、オンライン会議ツールが普及して安く早く定性調査ができるから、だけではない。

解釈するのも「人」

調査対象が「人」であるのと同様に、調査する側も「人」である。特に分析工程において、何らかの結果を解釈するのは「人」が成す仕事である。行動経済学を例に取るまでもなく、人は必ずしも客観的で合理的な判断をする生き物ではない。それを踏まえると、調査する側(リサーチャー)が認識しておかなければならないのは次の2点に集約されるのではないかと思う。

①定量調査で出てくる数字は嘘をつかないが、数字を扱う者は時々嘘をつく。(良いように解釈してしまう可能性がある)

②定性調査で出てくる言葉はその人固有のものなので、聞き手の解釈は時として本来の意図から外れる。(分析側の主観によって正しいインサイトにたどり着けなくなる)

これを意識しなければならない。自分の組み立てたロジックが必ずしも事実を正しく認識した結果であるとは限らない。むしろ論理構築の上で無意識的に、あるいは意識的に、意図しない事実を切り捨てたり歪めたりしている可能性の方が高い。

本来、誰しもが完璧ではない。人が人たる所以である。だからこそ、リサーチャーには謙虚に事実(調査結果)を受け止める思慮深さが求められる。事前仮説に反する結果をノイズとして切り捨てるのは簡単だが、果たしてそれがノイズなのかどうかは慎重に見極める必要がある。

調査をすればするほど、人の非合理な行動や態度に気付くことになる。それと同時に、分析する上での思考態度も得てして非合理的であることも認識しておかなければならない。

結局、どうすればいいのか

現状、この問いに答えられる哲学を僕は持ち合わせていない。様々な失敗を経ながら獲得してきた知見も、人の奥深さの前ではほとんど役に立たない。社会も人も、時間や時代に沿って変化する。1年前の常識は現在の非常識かもしれない。苦労して導き出した解は調査プロジェクトという場における解でしかなくて、時として僕を無力感に誘う。

恐らくリサーチャーは、事実と意見を最低限区別した上で、プロジェクトメンバーの納得と理解を深める調整役として振る舞うしかないのだろう。リサーチは事実を知るためのもので、真実を追求する場ではない。人の奥深さに対し造詣を深めながらも、プロジェクトにおける「コタエ」をどこかで線引きして示さなければならない。人の本質よりも、プロジェクトの本質を理解することの方が大事だ。真実に迫る研究ではなく、仕事としての成果を出すことが目的なのだから。

仕事はある意味、自己矛盾との闘いに他ならないとさえ思う。その闘いに決着がつくことは恐らくこの先もないのだろう。


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