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リサーチャーに憧れて。

マーケティングリサーチャーという職業にどんなイメージをお持ちだろうか?
華やかなマーケティングを陰から支える仕事人、緻密な性格で頭の固い人、データ分析職人、色々あるだろうがどれも当たらずとも遠からずだ。

いわゆるマーケティングリサーチを専業とする調査会社の数としては、マーケティング・リサーチ協会の正会員社が全国で110社(2024年5月1日現在)。そのほとんどが東京に一極集中している。事業会社でリサーチを仕事にしている人を除くと、極めてニッチな業界だ。

マーケティングの世界に憧れて、そんな業界に足を踏み入れた僕の職業人としてのこれまでを簡単に振り返ってみたい。


行動と意識を探る仕事

調査の仕事を始めてから20年になる。
その間、何かが大きく変わったかと言うと、体感的には正直あまり変わっていない。

定量調査の文脈で言えば、20年前に比べてネットが普及したためWEB調査の質が(比較的)安定した。定性調査に関しては、コロナ禍の影響でリモートが普及しオンラインデプスがスタンダードになった。観察調査の世界ではオンラインシェルフや視線計測、またコミュニティリサーチなどがより手軽な形で実現できるようになった。ビッグデータ解析のソリューションも多彩になり、ITの進歩は確実に調査手法の選択肢を増やしてきた。

だが、調査の基本は人間理解。人の行動と意識に関わる仮説の探索と検証。その本質的な部分は何も変わっていない。コトラーのマーケティングが2.0から4.0、5.0にまで進化しようと、SNSの普及によって世界の情報量が爆発的に増えようと、Z世代やα世代が次の消費の主役になりつつあろうと、AIが人間の仕事を奪おうと、マーケティングリサーチの基本原則、理論と技術は普遍的な真理として調査業界の礎を成している。

科学に裏付けられた広くて深い人間理解。それこそ僕がこの仕事を飽きることなく続けてきた追求の要であり目的でもある。

キッカケは転職サイト

この業界に初めて興味を持ったのは何を隠そう転職サイトだった。
物理学と化学、生物学を基礎とした環境資源科学を学び、その成り行きでメーカーの研究職に就いた。しかし、前時代的と言ったら失礼かもしれないが、古き良き日本企業のモノヅクリの現場に飽き足らなくなった僕は、新天地を探して転職サイトを漁りまくった。

モノを作って売るのではなく、売れるモノや売れる仕組みを作るマーケティングという概念に興味を惹かれつつ、かと言ってそれまで培ってきたサイエンスの素養も完全には捨てきれずにいた僕を強烈に引き寄せたのは、両者を程よく混合した(ように見える)マーケティングリサーチという分野だった。

ここが自分の居場所なんじゃね?

直感と思い込みで飛び込み、運良く小さな調査会社に拾ってもらうことになったが、それがその後20年の仕事人生を紡ぎ出すきっかけになろうとは、さすがにその時は想像もつかなかった。

それはホチキス留めから始まった

最初に任された仕事は、大量に印刷された調査票のホチキス留めだった。ひとつの調査票は8枚ぐらいの構成で、それを先輩社員が一気に3~4部ぐらい手に持ってスピーディーにパチパチ留めていくのを横目に見ながらホチキス留めの作業に没頭した。紙をトントンして揃える。ホチキスを差し入れる。パチン。

会場調査で使う提示物(クリエイティブ)をスプレーのりでボードに貼り付けていく仕事。調査員に持たせる物品(調査員証やボールペン、筆記ボード、コントロールシートなど)の準備。グループインタビューで使う名札やクライアント用の資料作り、ビデオテープとカセットテープの手配。実査準備は文字通り泥臭い仕事だったが、工場でドラム缶に入った大量の薬品を運ぶより100倍楽しかった。

一方で僕の得意領域を活かすことになったのが、集計ソフトを使ったデータ集計、Excelを使った集計表の製表作業、PowerPointによるグラフ作成作業だった。学生の頃からExcelによる表計算やPowerPointを使ったグラフ作成をしていたことで、比較的飲み込みが早く、客先に出せるレベルの成果物を早いうちに仕上げることができた。(当時はまだオフィス系のソフトに精通したメンバーが少なかったせいもある)

グラフ作業部隊の養成や集計手順の標準化を進めつつ、レポートのコメント、サマリー作成に挑戦。多変量解析や統計的検定の一部も任され、最初の1年ぐらいで基本的な集計分析を一通り任せてもらえる集計職人になった。残業は多く、給料も転職前と変わらないか若干低いぐらいだったが、それでも自己満足感はあった。

ただし、ミスは多かった

完璧を求めがちな性格の割に、凡ミスが多いのが僕の欠点だった。今で言うADHD的な傾向もあったのかもしれないが、当時は不注意や思い込みによるヒューマンエラーの宝庫で、何かを覚えるためには一度何かを徹底的にミスる必要があった。ミスを通じてしか学べないタイプなのかもしれない。

集計ミスやデータ貼り付け作業のミスなど、数字に関わるミスは調査会社にとって致命的なものだ。僕は一部の仕事において高い評価を受けながら、その他の仕事の評価が極度に低い、偏った人材だったような気がする。

それでも上司や先輩は諦めずにじっくり僕を育てようとしてくれた。君は良い物を持ってる、能力がある、どれだけ叱り飛ばした後でも、そう言って励ましてもくれた。あの頃の上司や先輩たちには今も足を向けて眠れない。最初にあの会社に拾ってもらえたことで、僕はリサーチャーという仕事を嫌いにならずに済んだのかもしれない。

その後の2社+α

何だかんだで長いことその会社に居たものの、集計職人、グラフ職人としてのキャリアからさらに一歩上のレベルに行きたいという思いから、僕は再度転職の道を選んだ。

転職先は某巨大な広告会社直轄の調査会社。
そこで求められたのはExcelやPowerPointの職人芸ではなく、より本質的なマーケティング課題から調査課題への落とし込みと調査設計、プランニング、関係各所を巻き込んだ壮大なディレクションだった。

それまで企画設計の部分には本格的に携わってこなかった自分にとって、新しい職場は修練と鍛錬の場。人間関係は悪くなかったが、環境的には限りなくブラックに近いグレーだったこともあり(多くは語るまい)、あまり長くは勤められなかった。ただ、調査の企画に関するスキルは確実に高められたように思う。

そこから更に機会に恵まれ、総合マーケティング会社に転職。フレッシュな人材の多い成長期の会社で、比較的気持ち良く仕事ができたのと、やはり人間関係に恵まれたこともあり(考えると僕はとにかく人には恵まれてきた)、調査の価値に対する一定の理解があるマーケティング志向の環境に身を置きながら、やっとここまで来たんだなという気持ちにさえなった。

ところがその後、実家の事情などが重なって、東京を後にし地元に帰らざるを得ない状況となった。

僕のリサーチ人生は一旦幕を下ろした、かに見えた。

地元の企業で働いてみたり紆余曲折あったものの、やはり長年にわたる調査マンとしてのキャリアを活かしたいと思った僕は、求人サイトを通じた出会いからフルリモートの形で再び調査の仕事ができるようになった。業務委託、いわゆる個人事業主の形でのリサーチャー人生が再び始まることになったのだ。

調査の仕事は東京でしかできないと思い込んでいた僕にとって、地元にいながらこの仕事ができるというのは意外でもあったが、回り道に回り道を重ね、三たび調査の世界に身を投じることになったわけだ。
インターネット万歳。リモート万歳。

そうこうしているうちに、また別の出会いがあり、更に新たな環境が僕を待っていたのだが…その話はまた別の機会に語ろうと思う。


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