中根すあまの脳みその56

部屋の電気を消すと、月明かりの黄色い道ができていた。
月が綺麗な季節である。

幼い頃、空が暗くなってから家路についているときに、月がいつまでたっても自分についてくることが不思議で仕方なかった。このままでは、家の中まで月が入ってくるのではないかと、真剣に心配していた。自分の後に続いて月が玄関から家に入ってくるという想像は、幼い頃の私にはなぜだかとても怖かったことを、今でも鮮明に覚えている。それから年を重ねていっても、月は私に不思議な感慨を与える。近くにいるようで、遠くにいるようで、近くにいるような感じだ。

小学生の頃、夜眠るときに月の光が窓から入って来ていると、わざわざ枕をそこに動かして、それを浴びるようにして眠っていた。黄色くて柔らかい光は、なんだかはちみつに似ているような感じがしたし、おおきなパワーが詰まっているような気がして、朝元気に起きるためにそれが役立つと考えていたのだ。根拠は全くないのだが、次の日はほっぺがつやつやしているような気もした。今思い返してみるとなんとも突飛な考えである。
その頃は、月がおいしそうだとも思っていた。
きいろくて、まあるくて、なんだかバターが染み込んでいそうなその姿。たまごの黄身っぽさもある。リアルな月の写真などを見ると、クレーターのぼこぼこ具合からして、よく焼いたおせんべいにも見える。そんなくいしんぼう全開な思考を巡らせていた当時の私は、産まれたばかりの妹(私が小学校3年生の時に産まれた)に、「つきってなにあじ?」という題名の絵本をかいてプレゼントしようと考えていた。月は一体何味なのか、いろいろ予想してみるけれど、最終的には月はきっと月味だよね、という結論に至る。そんなお話を考えていたけれど、今も昔も飽きっぽかった私は、それを完成させることなく、放置させていた。そういうとこ、私のわるいとこだよね、という反省文はまた今度にする。結局「つきってなにあ
じ?」はかききれなかったのだけれども、そのお話は私の心の中にずっと残っていた。

時は過ぎ、高校一年生。帰り道に見上げた月が、とても細く、鋭くとがっていて、なんとなくナイフを思わせるような形をしていた。なにか衝動のようなものを感じた私は、家に帰って、月を凶器にして人を殺す物語を書き上げた。これが私がはじめて書いたショートショートである。あの時見たとがった月が、私に物語を創作することの魅力を教えてくれたのだ。

高校3年生。演劇部の大会用に脚本をかくことになった。いざかいてみると、物語を進めることに精一杯になってしまい、どうにもこうにもつまらない本になってしまう。そのとき私は、小学3年生の時に考えた「つきってなにあじ?」のお話をふと思い出す。
たまたま舞台が夜だったシーンにその台詞を入れ込んでみた。すると、その脚本の物語と偶然にもよく合っていて、私のお気に入りのシーンになった。舞台を見に来てくれた友だちにも、「月のシーンがよかった」と言ってもらえて、途中になってしまったあの絵本が喜んでくれているような、そんな気持ちになった。

月は私の思考の原動力になることが多い。
ロマンチックでいて、なんだか身近で親しみやすい雰囲気ももつ月は、他の物事にはないすてきな魅力が詰まっている。
人間が唯一、肉眼で見ることのできる天体だからなのか、特別でありながら日常なのである。

先日、また月が登場する物語をかいた。
はやく、たくさんの人に届けたいなと、今日も月を眺めながら思うのである。

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