まほうだよ

花火が、すきだった。
それは、夏の夜に咲く一瞬の夢であり、わたしをどこか遠い世界に連れていく魔法だからだ。
花火が、見たかった。
わたしには友達がいなかったし、家族はみんなそれぞれに忙しくしていて、花火なんてものの存在など忘れ去っているようだった。つまりわたしには、花火をいっしょに見に行く人間がひとりもいなかった。仕方がないので、ひとりで花火を見に行くことにした。
8月13日の夕方のことだった。その日は怖いくらいに晴れていて、夕暮れのオレンジとピンクが混ざったような色合いががとても綺麗だった。
家から歩くには些か距離のあるところで行われる花火大会。会場に辿り着くかなんて分からなかったが、わたしは会場に向かってひとりでずんずんと歩いた。
少しでもスピードを落としてしまったら、この夏をひとりで横切る寂しさに負けてしまうような気がして、わたしは無心で足を動かした。
じとっとした蒸し暑さのせいでおでこに汗が流れ、前髪を濡らしはじめた頃、前方に見える人影に気がついた。歩道の端っこに、誰かがうずくまってしゃがみこんでいる。わたしにはその場所だけが何か特別な空気でできていて、ふわふわと浮世離れしているように思えた。だんだんと近づいていくと、そこにいるのは自分より年下のようにも見えるし、とんでもなく年上のようにもみえる、何とも奇妙な雰囲気を纏った男の子だということが分かった。
わたしは、その男の子の横を通り過ぎようとしたが、それが出来ないのだ。そこには不思議な力をもった空気の壁のようなものが存在していて、そこを突っ切ろうとすると、その空気がものすごい力で抵抗した。驚きはしなかった。そんな特殊な、信じがたい状況に直面しても、わたしの心臓はちっとも高鳴りはしなかった。
なんとなく、こうなることを予知していたような感じがしたのだ。自分がこの場所で知らない男の子に遭遇し、声をかけることを、生まれる前から知っていたような気がした。
『だいじょうぶ?』
わたしは男の子に話しかける。
すると男の子はゆっくりのっそりと顔を上げ、わたしの目をじっと見つめた。少し長めの前髪からのぞく彼の目は限りなく澄んでいて、それでいてどこか不思議な色をしていた。わたしはその目を綺麗だと思った。彼はわたしから一瞬も目を離さずに、言った。
『花火ってさ、』
『うん?』
『花火って、きみは見たことある?』
彼の、綺麗で低くて潤いのある声がわたしの耳に余韻を残した。
『あるよ』
『花火って一体どんなものなの?』
わたしは、脳みそが蕩けてしまっているような気分で答える。
『花火はね、一瞬のできごとなの』
『うん』
『一瞬だけ、わたしたちをちがう世界に連れてってくれるの』
『ふうん』
『大きな音とたくさんの光が、わたしたちの退屈な世界をわすれさせてくれる』
『花火は、きれい?』
『もちろん、とってもとっても綺麗だよ』
『そうか、花火ってそうなのか』
『そうなの』
『ねえ、ぼくはね、』
その瞬間、彼の顔がどうしようもない悲しみで歪んだ。わたしには彼の次のことばがわかった。
なぜなのかはわからない。でもそのときのわたしには、わかってしまったのだ。わたしは口を開く。
『花火を見たことがない?』
彼の不思議な目が、いっぱいに見開いた。彼は驚いていた。
『どうして、わかるの?』
『わかるよ、どうしても』
『きみは変だ』
『きみの方が変だよ』
『花火をみにいきたいんだ』
『うん』
『ぼくはどうしてもその、花火をみにいきたい』
『うん』
『きみは、いっしょにいってくれる?』
わたしはやっぱり知っていた。彼が花火を見に行きたいと思っていることを、生まれる前からわかっていたような気がしたのだ。
『もちろん、いっしょにいくよ』
彼はその目に涙を溜めたまま、綺麗な声でこう言った。
『ありがとう、きみに出会えてよかったよ』
わたしは、彼に向かって微笑んでみせた。
さて、目的である花火大会に向かおうと深呼吸をすると、なにか違和感を感じた。咄嗟に携帯の電源を入れ、時間を確認すると、信じられないことにもう、深夜と呼ばれる時間になっていた。
彼との、あれだけの会話の中で信じられない程の時間が流れていたことになる。それはおかしなことだと思ったが、今問題にすべきなのはそこではなかった。
花火大会が、おわってしまった。
わたしは慌てて彼に言う。
『どうやら、今年の花火はもうおわってしまったみたい』
『え?』
『花火はおわったの。もう、来年までみれないの』
『うそでしょ?』
『うそじゃない。あなたとの会話で、時間がおかしくなっていたみたい』
すると驚いたことに彼は、大粒の涙をぽろぽろとこぼし始めた。その顔はとんでもなく幼いようにみえて、ひどく大人びているようにも見えた。
『きみ、やっぱり変よ』
『え?』
『なにからなにまで、すべてが変』
そう言いながらわたしは、左手で彼の目元を拭った。彼の涙は冷たかった。
『でも、なんだかしらないけど、わたしきみのこと、とってもいいと思うよ』
口をついて出たことばは自分でもよくわからなかったが、本心に違いなかった。
すると彼は涙に濡れた顔のまま、くしゃっと笑って言った。
『なんじゃそりゃ。きみのほうが変だよ』
その瞬間、わたしたちの目の前で大きな音がした。花火が上がったのだ。
彼はその光を、澄んだ目で吸い込むように見つめている。花火は何発も何発も上がり、赤や青や金の輝きでわたしたちを照らした。
『ほんとだ、』
惚けたように彼が言う。
『ほんとうにこれは魔法だ』
『ほらね、言ったでしょ』
彼があまりにも見蕩れているものだから、わたしは得意になって笑った。


気がつくとわたしは、歩道に座り込んだまま眠っていた。どこか切ない、夏の朝の匂いがする。
隣には誰もいない。ただそこにはひっそりと、涙の染みが残っていた。彼のものだ、と思った。
あの花火を見た物は他にいなかったのだ。夏のしいんとした深夜に上がった、あの花火を。
わたしは、あの夜に触れた、彼の、涙の冷たさを思い出していた。

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