中根すあまの脳みその231

写真を撮るという行為に意義を感じていなかった。
写真を撮るのは、SNSに投稿する予定があるものだけで良いと思っていた。
自分が活動をする人間として必要な最低限の写真以外を、アルバムに増やすつもりがあまりなかった。

学生時代、
文化祭も体育祭も卒業式も、
残されているのは、当時特に仲が良かった人とのツーショットと、取ってつけたようなクラスの集合写真だけ。
学校のイベントの写真は投稿できないからいらないと思っていた。
クラスのあらゆる人とツーショットを撮っている人を見て、心から疑問に思っていた。
景色や目の前に広がる日常を丁寧に撮っている人を見て、首を傾げていた。
そんなものは見返さないし、データ容量を圧迫する要因になるだけではないかと、思っていた。
別に私は、冷たい人間ではない。
その頃からずっと。
しかし、今この瞬間から目を逸らし、未来のために写真を撮る事が、なんだもったいないような気がしていた。

ここ1年くらいで、なんとなく、写真を撮る意義というのが分かり始めていた。
気づいたら、カメラを起動してシャッターを切っている、ということが少しずつ増えていた。
初めは衝動的にそれをしていて、最近になって、そのわけが分かった。
おそらく、愛おしいと思った瞬間に写真を撮っている。
クラスメイト全員と写真を撮っていたあの人からしたら、そんなの当たり前だと笑うかもしれないが、私にとっては、自分が心の底から何かを愛おしいと思えているということが新鮮であり、また、喜ばしかった。
先程から文章を綴っていて、私という人間が、あたかも、感情を持たない悲しい怪獣のように、または、自己を他人と違う特別な存在だと位置付けることにより優越感を感じる思春期特有の”あの”疾患に未だにかかっているのかと思われているような気がするが、決してそうではない。
この瞬間を大切にしたいと思ったときに、それを記録し、未来に繋げる唯一の手段として、写真を撮る、ということがあるのを、私は最近認識した、という話なのだ。
過去の自分はそもそも、記録し、未来に繋げたいと思う瞬間と出会えていなかったのだろう。だから、写真を撮る時間というのがなにか、その瞬間を無駄にしているように思えた。しかし、ごく自然にその瞬間を愛おしいと思えたとき、それを思うまもなく、シャッターを切っていることがある。
ああ、あのときのあの人もそうだったのかと、自分が経験して初めて、他人の行為の意味に気づくのだ。

しかし困ったことに、最近、データ容量が足りなくて、写真が撮れないことがある。
学生時代の私は、そんな今の私を見て笑うだろうか。

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