狭間

目が覚めたら夢だった。
自分が存在する世界が現実であるような気もするし、夢であるような気もする。
なぜだかぐわんぐわんしてまとまらない頭で考えたのは、これは夢と現実の狭間なのではないか、ということだった。
もうすこし意識が覚醒すれば、いつも自分が存在している世界、あまりにも忙しなく世知辛い世界、にもどってしまうような気がしたのだ。
ひとつおかしなことがあった。それは、今ここに存在しているぼく、という生き物が、どのような過程をたどってここに至ったのか、よく思い出せないのだ。これは重大なことのようでいて、ごくどうでもいいことのようにも思えた。
なぜだかぼくは今自分が立たされている、得体の知れない世界に満足していたのだ。まだこの世界を認識してからたったの少しも経過していないというのに、だ。
うすく紫色を帯びた、空なのかなんなのか形容しがたい天井に、雲の上のようで畳の上のようでもある、ふわふわで、それでいて安定した地面。それらはすべてほの甘い空気の粒を纏っていて、そこに存在するぼくをなんとも言えない心地良さで包み込んでいた。だが、体は重かった。船酔いをしたときのような目が回る感覚、ぼーっとして働かない脳みそ、その全てが自分の存在している場所が現実世界でないことを物語っていた。
突然、さくっ、さくっ、と軽やかな音が聞こえ、目を凝らすと正面から女の子が一人、近づいて来ていることが分かった。
こんなにもふわふわした地面なのに、足音はまるでクッキーをかじったときのような音で、不思議に思っていると、あっというまに女の子はぼくの目の前まで進んでいた。
女の子はぼくと目を合わせると微笑んで、『わたし、バタークッキーがいちばんすきなんです。』と言った。ぼくが呆気にとられている間にも彼女はしゃべり続ける。
『クッキーってどんな種類のものでもたっぷりのバターが使われていて、別にわざわざバターって言わなくてもバタークッキーなんですけど、それでもなおバタークッキーって名乗ってる、その心意気がすきなんです。それに、バターっていいですよね。なんだか、ことばの響きにあたたかみを感じるっていうか。』
ぼくが呆気にとられていたのは、彼女がここまで来る足音を『クッキーをかじる音』と形容していたことを読み取られたみたいだ、とか、とはいえ話の内容が突拍子もなさすぎる、とか、そういったことではなくて(まあ、それも多少はあるが)、まるでぼくの耳を浄化していくような彼女の声の美しさだった。彼女の発することばひとつひとつに、澄みきった水が流れているような、そんな声だった。
口をぽかんとあけたままのぼくを不思議に思ったのか、彼女は首をかしげて言う。
『あれ、チョコチップのほうがすきでした?』
なんだか急におかしくなって、ふっと笑うと彼女はうーん、と唸って『そうかあ。やっぱりチョコチップかあ。』などと眉間にシワを寄せながらひとりごちていた。彼女がことばを落とすたびに、ぼくの耳は心地の良い余韻に揺れた。変だなあ、と思った。だが、この何から何まで説明のつかない世界の中ではそんなことどうでも良いような気がしたし、このくらいの可笑しさがかえって自然に感じられた。
いつのまにか彼女はぼくのとなりに座っていて、うす紫色の天井を仰いでいた。
『起きたらここにいたんです。ここは夢?それともわたしは死んでいて、ここは死後の世界?なにもわからないんだけど、でもなぜか、それで良いような気がしたんです。』
彼女のことばはふわふわと宙に舞い、ぼくのもとへと飛んでくる。星屑のようだった。
『実はぼくもまったく同じ状況なんです。根拠はひとつもないんだけど、ぼくが思ったのはここは夢と現実の狭間なんじゃないかなって。』
ぼくのことばは星屑ではなく、不格好な舞い方をしていた。
『夢と現実の狭間、か。なかなかいいですね、それ。きっと望めば夢にも現実にも戻れるんだろうな、そんな気がする。』
『ぼくもそう思う。もしそうだったとして、君は戻る?夢か現実のどちらかに。』
彼女がこちらを向く。とても綺麗な目をしていたが、その目に光はなかった。かわいらしい顔立ちの中に、見ていてどこか不安になるような、切なくて泣いてしまいたくなるような、そんな『なにか』を彼女は持っていた。
考えるような仕草をしたあと、彼女はゆっくり、そっとことばを落としてゆく。
『わたしは、戻らない。どちらに戻ったとしても、あまりいいことは起こらない気がするんです。自分がどんな生き物で、どのような経緯で今に至ったのか、ぼんやりとしかわからないけど、なんだかとてつもなく悲しい出来事があったような気がするんです。よくわからないから憶測ばかりなんですけど。でもわたし、悲しいのはもういらないなって。』
『そっか。』
ぼくはそれだけ言って、口を閉じた。
しばらくの間、沈黙が続いた。時間という概念がない世界での、究極に贅沢な沈黙だった。
うす紫色の天井からは、何かの花びらのような、それでいて雨粒のようでもあるよくわからない物体が、絶え間なく落下していた。ぼくはそれを手に取り、口に含んでみた。きーんとした、目眩のするような甘さがぼくを襲った。
『ここはどこ?』『これはなに?』そんな疑問が意味を持たないこの世界に存在しているぼくは、その甘さについて追求する気にはならなかった。
ひとつ、またひとつ、オーロラのような色をしたその物体が落ちては消えていく。ずっと見ていても飽きることはないと、ぼんやりとそんなことを考えていた。
『すきなひとが、居たと思うんです。』
沈黙を破った彼女の声は、やはりものすごく美しくてどうにも聞き慣れない。
『すきなひと?』
『そう、すきなひと。今思い出していたんです、わたしのこと。』
『ああ。』
『わたしにはすきなひとがいて、その人はいつでもわたしの一番近くに居てくれて、でもその人と話すことはできなくて。その人はいつもわたしに声をかけてくれるんですけど、なぜだかわたしには返すことができないんです。』
彼女は微笑みながら、まるで宝箱のふたを初めて開ける時のようなきらきらとした表情で語る。
『でも、その人がかけてくれることばには、いつも光があった。明日の天気はこうだ、とか、今日の夕飯がこうだった、とか、そんな一見普通すぎてつまらないような話題たちが、わたしには光だった。それは、わたしにはどうしても見ることのできない光。だからわたしは、その人がすきだっ
たんです。』
彼女の目の下がちらちらと輝いている。涙ではない。
ぐわんぐわんしてまとまらない頭が、ひとつの答えにたどり着いた。その途端、ぼくの中で濃い霧がかかっていた今までのぼくのことが、一瞬にして冴えわたった。
彼女の目の下の輝きの正体がわかった。
星屑、だった。
『ぼくにもすきなひとが居たんだ。ぼくはその人の声を聞いたことがなかった。でも、それでも、
その人のおかげでとてもしあわせだったんだ。』
ぼくは彼女の目の下の星屑を人差し指で拭って、ぺろりと舐めてみた。少し、しょっぱかった。



『まったく同じタイミングでしたね。』
『そうだね、先に彼女が。その後を追うように彼が。』
『彼、いつも彼女に外のこととかいろいろ話してあげてて。でも彼女はもちろん、なんの反応もないじゃないですか。それに自分の体調だってどんどん悪くなっていたのに。』
『切ないね。』
『はい。この病院に転院してきた時期も同じくらいでしたし、ずっととなりのベッドだったから、ふたりの間には深い絆があったのかもしれないですね。』
『上に行く前にきっと、どこかで会話してるよ。』
『それ、素敵ですね。そうだといいなあ。』
『あ!そうだこれ、お世話になりましたって彼女のお母さんから。』
『あら、なにかしら。』
『バタークッキー。』
『うわあ、おいしそう。休憩のときにいただこうか。』
『やったー!』




たぶんぼくら、ずっとここにはいられない。
じゃあ戻るの?夢に?現実に?
違うよ、2人で手を繋いで上に行くんだ。
上?
そう、上。きっとそこなら、ぼくたちずっといっしょにいられるよ。
そっか。それならまず、いっしょにバタークッキーをたべましょう。
嫌です。
なんで?
だってぼくは、チョコチップクッキーのほうがすきだから。

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