中根すあまの脳みその40

晴れた日には、晴れた日であること楽しまなくてはと焦ってしまう私であったが、この生活で晴れた日を無駄遣いしすぎて、その感覚も忘れつつある。

今日もよく晴れている。

だが私の心には、灰色の重たい雲がもうもうと立ち込めていた。

外に出ない、なんとも省エネな日々が続いて、日々の楽しみというのはもはや、「おいしいものを食べること」のみとなった私の世界。
そんな世界で暮らすこと1ヶ月と少々。
恐れていた事態が、いとも容易く訪れたのだ。

あごの辺りに違和感。
歩く度に触れ合う両太もも。
不気味に震える二の腕。

それは食の幸せと引き換えに現れる、なんとも醜い物体。
なぜ人間は、純粋に「食」を楽しんではならないのか。欲望の赴くままに、美味を貪ってはならないのか。
幸せというのは、手にした分だけ失われる。
なんて悲しい世界なのだろう。

全身にしがみついて離れないその物体は、私が今まで重ねてきた悪行の数々を鮮烈に思い出させる。

3月27日の単独公演を終えた私は、その解放感からコンビニで食料を買い込み、ひとり獣のように腹に詰め込んだ。
思えばその日から私はおかしかったのだ。
翌日、食欲のタガが外れたまま巣ごもり生活が始まった。
母親のつくるあたたかくて美味しい手料理を際限なく食し、夜更かしをした分だけ減る腹を、お菓子や卵かけご飯でなだめてゆく。
昼過ぎに目を覚まし、冷凍庫に眠るアイスクリームを朝食にする。冷たくて甘くて癒される。
そしてそのあとは、夕飯を待つだけである。
その時私はまぎれもなく、夕飯を待つためだけに生きていた。どこまでも食欲に忠実な生活。人間にとって「食」とは、生命を維持するために必要な行為だが、外に出ることが制限された小さな世界の中でそれは、完全に娯楽であった。
不思議なことにその時の私は、好きなだけ食べることに対して訪れる代償について、あまり深く考えなかった。
17キロのダイエットに成功してやっと、まともな人間の姿を手に入れた私にとって、食べるという行為には常に罪悪感がつきまとっていたはずなのに、それが一切なかった。
つい、先程まで。


夢が覚めるのは本当に一瞬のことだった。
ふと鏡に映る自分を見た時、鈍い衝撃とともに、ずんと重い絶望が全身にのしかかってきた。
それはまるで、この生活の中で自らの身体に蓄積された醜い物体が、急激に現実味を帯びるような感覚。
つい先程まで、幻覚だと思っていた身体の重さが、現実の自分のものとして認識されたのだ。

「食い」と「悔い」はいつだって隣り合わせ。
そう、自分の胸に深く刻みつける。
溢れ出す自己嫌悪。恨んでも恨んでも過去の自分は食べることをやめない。

ぐーーー。


それでも腹は減る。その事実に腹が立つ。
私はいつまでたっても飼い慣らせない。その巨大で強力な食欲を。
震える手で炊飯器の蓋を開け、しゃもじを握る。飯を盛り、卵を割り入れた。そこにはもう、少しの迷いもなかった。
世界をも征服できてしまいそうな大きな気持ちで、焼肉のタレを回しかけた。

もう怖くない、私は何も恐れることはないのだ。
黄金色に輝く飯をかきこみながら、私はそう考えるのであった。


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