中根すあまの脳みその157

私の中心人格には「食いしんぼう」がある。
決して「大食い」ではない。
あくまでも「食いしんぼう」だ。
食を愛し、食を敬い、食に人生を見る。
そんな性格なのである。

「食いしんぼう」として、自身の食欲と向き合っていく中で、最近気がついたことがある。それは、私の食欲というのは、心の余裕と比例しているということだ。
ライブに出演する日や、劇団の稽古の日、オーディションや面接の日、なにか心を奮い立たせてやり遂げなければならないことがある日の私に「食いしんぼう」の面影はない。
朝食も昼食も食べたいと思わない。それどころか、いらない、とさえ思う。
脳内にイメージされるのは、人体模型になった自分の姿。すべての臓器がパンパンに脹れている。中に入っているのは、不安、緊張、夢、希望、責任。各種感情たちがみっちりと詰まった私の体内に、食べ物が入る隙間などない。私にとって感情は食べ物と同じように消化され、排出される存在である。つまり、仕事を終えて、感情が外に出てくれないと、食べ物を体内に取り込むことができないのだ。

ひとりの時は大抵、食事は取らない。私は、努力して気持ちを昂らせないと上手く仕事がこなせない人間なので、移動中に好きな音楽を聞いてひたすら、体内に感情を取り込む。
舞台に上がった時、稽古場で演技をする時、オーディションで自分をアピールする時、その感情を最大値にもっていくことができると、私は、仕事に対して納得することが出来る。
その後もすぐに食欲が湧くということはない。家に着いて腰を落ち着けてやっと、空腹を認識するのだ。

人といる時は少し面倒である。
自身の空腹と関係なく、食事をとる必要があるからだ。一般的に、食事を抜く=パワーが発揮できない、という認識が広くあるので、私が少しでも食事をとることにネガティブな態度を示すと大抵の人は、私の身を案じる。
そうじゃないのにな、と思いながらも気の弱い私は食事をとることを選択する。だからといって、自分の身になにか悪影響があるわけではないのだが、単純に、旨い!!と感じられない食事は少し悲しいのだ。

では反対に、心に余裕があるときにはどうか。
もちろん、私の食欲はとめどない。一日中ずっと、食べることしか考えられないほどに、だ。体内の、感情が排出され、持て余した部分全てに、食べ物を詰め込もうと脳が作用する。たべろたべろたべろ。
たくさん食べてもなお、気持ちが満腹にならず、心だけが食べ物を求めている。この状態を私は、心の空腹と呼んでいるが、こうなるともう、この体の持ち主である私ですら、お手上げなのだ。

数日前、この夏をかけて撮影した映像作品が公開された。そう、私の心は今、隙間だらけなのだ。その隙間に食べ物を詰め込んでしまう前に、別の新しい計画を、少しずつ考え始めようと思う。

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