中根すあまの脳みその219

心の重さと、踏みしめるペダルの重さがあまりにも釣り合っていなくて笑ってしまう。
自転車での帰り道。
今日は、ここ最近停滞していた日々の流れをえいやっと押し進めることができたのだ。
それはまるで、温度を均等にするためにかき回す風呂桶が、お湯の抵抗に慣れて、すらすらと動いていくようになる、そんな感覚であった。
故に、心は軽い。
それなのになぜか、ふみしめるペダルは重いのだ。
ちぐはぐでおかしかった。

自転車に乗るのが最近、やけに億劫である。
家から最寄り駅までの道のりを、より素早く移動するための手段。
私は高校生の頃からずっと、ほぼ毎日のようにそれを続けていたのだが、なにかが急に、うっすらと、嫌なのである。
これまで、そんな気持ちになったことがなかった。
むしろ、好きだったくらいだ。自転車に乗って風を切る、そんな時間を、大切にしていた。
それなのに急に、心が自転車を受け付けなくなっている。

少し前に話したひとが、自転車に乗っている人間の姿は愛おしいと言った。
かつての恋人が、自分の家までの道のりを自転車で爆走しながらやってくるのが、位置情報アプリを通して見て取れ、それがすごく好きだったと。
確かに、歩くより、走るより早いその手段を使って、よりはやく、はやく、と、自分のもとにやってくる恋人の姿なんてのは良いに決まっている。
健気でかわいい。
しかし、日頃から自転車に乗っている私は、その話を聞いて瞬時に自転車に乗っているときの己の姿を思い浮かべてしまう。
前髪は風で吹き上げられ、服はなにか魂でも宿っているかのように激しくはためき、
それでも前を向きペダルを漕ぐ私の顔はこれ以上ないくらいに険しい。
優雅に自転車に乗れたことなどない。必死だ。目的地に無事辿り着くことに必死なのだ。
自転車に乗っているときの己の姿など、極力見られたくない。私は静かにそう思った。
私は急ぐことが嫌いだし、急いでいるところを人に認められるのも嫌いなのだ。
そんな私の性分が年々主張を強めている。
それに従って自転車の存在というのも、私にとって歓迎できないものとなってきているのかもしれない。

しかし、分かっているのだ。
踏みしめるペダルの重さの正体は、タイヤがしぼんでしまっているからだと。
このままでは、危ない。
わかっていてもついつい、後回しにしてしまう。
軽くなった心の分だけ余った空気を、自動でタイヤに入れてくれる仕組みができたらと
能天気なことを思いながら、家を目指すのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?