中根すあまの脳みその228

例えば、キャベツを一玉、千切りにするとして。
脳内に浮かぶのは、緑色の球体に、ひたすら刃物を振り下ろし、その上下運動によって細く細かくなっていくキャベツの姿、そして、その動きを繰り返している自分であるが、
それは、キャベツを一玉、千切りにするという経験がない私の、生易しい想像であることなど、千切りにされるべくキャベツを一玉、前にした瞬間に、察することなのである。

冷静に考えて、だ。
キャベツを一玉、そのまま切り刻んだとして、千切りにはならんのだ。
まず、汚れた外側の葉をちぎり、ざっと水で洗い、ざくっと包丁を入れ半分の大きさにし、芯を大まかに取り除き、そしてやっと、ああなんか千切りになりそうじゃん、と思える状態になる。その状態から迷いながらさらに3等分。イメージのままの上下運動の繰り返しでキャベツは晴れて、千切りになった。
例え、どれだけ想像力が豊かな人間でも、経験のないことについて、正確にその手順を思い浮かべることはできないのだ。惜しいところまではいけるかもしれない。しかし、実際にやってみてはじめて見えてくるものというのは、必ず、ある。

それを分かった上で物を言いたいと思う。
類似の経験と照らし合わせて、この程度だろうと高を括ることが、どれだけ情けないことか。
それを忘れないでいたいと思う。

キャベツは、お好み焼きになった。
お好み焼きの店に行くといつも、あまりにも食べるこちら側の背負う責任の割合が大きすぎて、なんとなく損をした気分になってしまう。私だけだろうか。私の心が狭いのだろうか。
それ故に、焼くことにとことん本気になってしまう。
会話などできない。
見逃せない。
最高の焼き加減を。
この緊迫感を回避するために、人は外食をするのではなかったか。
拭い去れぬ不信感を、綺麗に焼きあがったお好み焼きを夢想することで押しとどめて。
美味しいから、いいのだ。それでも。結局は。

日頃、当たり前と思っている事には、当たり前ではなかった瞬間があり、
当たり前と思う時間が長くなればなるほど、その瞬間は忘れゆく。
噛みしめよう、噛みしめようと思えども、人間は忘れる。
それは、もうこんな酷い目には合いたくないからと、昨晩の無理を呪った二日酔いの朝だとか、そういった愚かな思い出に代表されるのだが。
しかし、それが人間の可愛らしさであり、人間の人間たらしめている部分だと、そう思うことでやっと、息をする。
お好み焼きは、美味しかった。

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