中根すあまの脳みその110

出会わなければよかった。
一体、何度同じことを考えただろうか。
唇を噛み締め血を流すほどに後悔しても、出会う前の時間はもう、帰ってこない。
あの平穏な日々はもう、帰ってこないのだ。

それは、ごくありふれた深夜。
母親も妹も動物たちも寝静まり、私ひとりで放置していた大学の課題に取り掛かろうとしていた、穏やかな夜である。
ふと用事を思い出し、家族の衣類が詰め込まれている我が家の納戸に足を踏み入れ、用事を済ませ引き戸を閉める。その場から立ち去ろうと体の向きを変えたそのとき、私は目を合わせてしまった。あれは完全に目が合っていた、だろう。
その瞬間から我が家の運命は、大きく歪んでしまったのだ。

それは蜘蛛だった。それもかなり大物だ。
人間の掌の半分くらいの大きさ。
相手も息を飲む気配がする。頭では事態を理解しているが、心がそれを拒否している。その証拠に、無意識的に「ひっ」と声が飛び出す。私は小走りでその場を立ち去り、少し考えてから、2階で眠る母を起こしに行った。

母を連れて来たところで、状況はさして変わらない。なぜなら、この家で父がいない(うちの父は単身赴任中である)とき、この手の作業は私が行うのが最も効率がいいため、結局、奴の相手は私が担うからだ。母と妹はリアクションが極端に大きいため、虫に対する恐怖が無駄に増幅し、迅速な対応ができない。しかし、話し相手ができたというだけでも気持ちは幾分楽である。母と作戦を話し合いながら奴に立ち向かうつもりだった。

だが、出会った場所に奴はいなかった。
そうなると話は余計にややこしくなる。気配を消し、その周辺を捜索する。足元から急に奴が姿を現したらと思うと気が気でない。腰は引けるし、少しの刺激にも恐怖を感じてしまう。視覚が過敏になっていて、床に落ちた埃、棚の上に置かれたヘアピン、黒色をしたもの全てに惑わされる。
ゆっくり後ろを振り返ったとき、また目が合った。出会った場所から少し横にずれたところに、奴は、いた。どれだけ落ち着いているつもりでいても、奴を目の前にすると体は勝手に忙しく逃げる準備をする。こちらが動揺しているのと同じように、奴もまた、動揺しているような気配がした。

母に手渡された殺虫剤を片手に、リベンジを誓う。3度目の正直、次こそは確実にしとめないと、私と母の安眠、そして翌朝いちばんに起きてきた妹の健やかな朝は失われる。
今こそ家族を守るときだ。私は意志を固くして、戦場へと乗り出した。
しかし、どれだけこちらが戦意を剥き出しにしても、相手が現れないのなら攻撃のしようがない。そう、奴はどこにもいなかった。殺虫剤を受け取っていたあの一瞬の間で、一体どこまで行ってしまったのだろうか。いや、すぐ近くで息を潜めているだけかもしれない。
何度注意深く当たりを捜索しても、奴の姿は見当たらなかった。疲れ果てた私と母(リアクションをとるのに忙しかった)は、現状維持という、最も避けるべき決断を下した。

今も敵は見つかっていない。
あのとき出会っていなかったら。互いの平穏は奪われなかったはずだ。私たち一家の平和も守られ、奴の、蜘蛛の命だって狙われなくてすんだのだ。運命とは残酷である。

出会わなければよかった。
今の私にはそう、運命を憎むことしかできないのであった。

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