僕のミラクルビラ配り

ビラ配りをしていた。
僕の居場所が、なくなるかもしれないという知らせを聞いたからだ。
そんな危機的状況にも関わらず僕は、ビラ配りのビラってなんだろう、チラシじゃダメなのか、そもそもチラシってなんだろう、と、呑気に、しかし、真剣に考えていた。
けれどもさすがに、脳みその47パーセントくらいは事態の深刻さに気付いていて、いつもなら、なぜ、と思うと反射的に検索画面に向かう指先も、今日は薄い紙の束に吸い寄せられたまま離れなかった。長時間そこにとどまっている指が、紙を湿らせていた。しおしおと。
不特定多数の人にビラを手渡しながら僕は、無差別殺人犯のことを思った。もし、この紙に毒物がついていたら、僕のしていることは無差別殺人である。僕は、僕の居場所がなくならないように、ビラを配る。この危機的状況を多くの人たちに知らせるべく、ビラを配る。伝えたいという気持ちが募れば募るほど、呼びかける声は自然と大きく、荒々しくなっていて、喉がおかしくなった。きっと、伝えたかったのだろう。無差別殺人犯も。そうだとしたら、人を殺してしまう程の気持ちってなんだろう。殺人でしか伝えられないことなんてあるのだろうか。いや、ない。ない、し、そんな危ないことを考える必要もない。ところで、ビラってなんだろう。へんななまえ。
隣には竹中君がいた。
配るべきビラを足元に放置して、通りかかった女の子と話している。話しているというか、しゃべっているというか、くっちゃべっているというか、だべっているというか、なんというか。これは、そうだ、いちゃいちゃしている、だ。
僕は、もう一度竹中君のほうを見る。
いちゃいちゃ、という言葉の響きには、丸見えになった下心のような嫌らしさがある。しかし、彼のそれには爽やかささえ感じる。訂正する。いちゃいちゃではなく、いさいさ。いさいさ、がいい。しっくりくる。実は、彼の目線に熱はない。あるように見えるが、正面から見据えると分かる。ないのだ。一歩どころか、五、六歩引いている。
女の子。いちゃいちゃしてほしそうなのに。
竹中君はいさいさすることで自分を守っている。
梅雨の時期の空は不安定で、昨日は冬なのに今日は夏だ。風だって、昨日は北から吹いていたのに、今日は南からである。ちなみに僕は、どっちが北とか、南とか、そういったことは分かっていない。頬に当たるそれの、温度で判断しているだけだ。今日は、生ぬるい。だから、これは南風なのだ。小学校の理科の時間、クラスのみんなで屋上へ出向き、どっちが北とか、南とか、そういったことを習ったおぼえがある。それもたしか、ちょうどこの時期だ。僕はただ、風のことを考えていた。ちょうどそう、今のように。そのせいで僕は一生、方角が分からない。おそらく南風はまだ、いつものペースがつかめていない。だって、たぶん、今年になって初めての出番だ。分からないのも仕方がない。急に台風のような強さになったり、まったく存在感を消し去ってしまったりする。風なのに、人間味があると、僕は思った。
分かっていた。
僕は、今自分の置かれている状況について、できるだけまともに考えたくなかった。
大人からその事実を聞かされた時、僕の脳みそは、別に好きでもない、ただお正月にたまたまテレビで見ただけの、しょうもない芸人の漫才のネタを思い出していた。人間というのは凄い。壊れてしまうのを未然に防ぐ機能が備わっている。僕はたぶん、まともに話を聞いていたら壊れていた。ゆっくり時間をかけて噛み砕く必要があったのだ。その事実について、僕なりに。人間は凄い。そして、しょうもない漫才もまた、凄い。
大きくてごつごつしたその事実は、日を置くにつれて少しずつ細かく、飲み込みやすくなってきてはいるが、きっとまだ飲み込むには早い。喉に詰まらせて窒息死する。だから、僕はさっきから、ビラがなんだとか、連続殺人犯がなんだとか、いちゃいちゃという言葉がどうだとか、北と南がどうだとか、そんなことばかり頭の中で反芻しているのだろう。分かっている。分かっているところがまた、腹立たしい。
風が。
湿っぽい、決して快くはない風が吹き上げる。
ひゃあ。
聞こえてきた甲高い声の主は、竹中君といさいさしていた女の子のものである。
彼女の紺色の、細いプリーツの入ったスカートが風を含んでくらげのように膨らんでいる。
慌てて押さえる彼女。竹中君はそれを見ていない。見ればいいのに。ちなみに僕も、見ているようで見ていない。
僕達の視線の先にあるのは、舞い上がり、散らばっていく、薄っぺらいビラだ。
体が先に動くとはこのことか。
スカートがくらげみたいだと思った頃にはもう、僕はビラを拾っていた。
まるで、砕けた僕の心臓を再びひとつにするかのように、確実に、拾っていく。
竹中君は、足元に優雅に落ちた一枚だけを手に取って僕に言った。
「ね、そろそろやめにしない、もう暗いしさ」
ビラに書かれた僕の文字が、はっきり読み取れるほどの光は残されていた。
それなのに竹中君は、まるで彼の周りだけ真っ暗闇なのかと疑う程に、真実めいた調子で、爽やかにそう言ってのけた。
「うん、でも、僕はもう少しやるよ」
俯いたまま、僕はそう言った。
僕は、彼には勝てない。勝てないどころか、対等だと思えない。この場において正しいのは絶対に僕なのに。
「そっか。がんばってね!」
嫌味なくらいに嫌味のない笑顔を残して彼は去った。
横を歩く女の子のスカートが、気まぐれな風に適応して著しく形を変えている。
気づけばすっかり夜だった。
空が明るいうちは、みな揃って余所行きの表情を張り付けていたのに、闇にのまれていくにつれて、思い思いの感情をそこに滲ませるようになる。口元を緩めて繁華街へと向かう者、虚ろな目で地面を這うように進んでいく者、極端で個性豊かなその様子に僕は、妙な安心感を覚えた。そして不思議なことに、そういった人々は、僕のことをちゃんと認識した。僕の思いを受け取ってくれた。彼らだって昼間には、同じような表情を張り付けていたのだろうに。
いい加減に夜も更けて、僕の前を通る人はいなくなった。誰かが落とした空き缶を、先程までとはまた別の顔をした、素っ気ない風がどこかへ運んでいく。からんころんからん、からんころんからん、からんころ、途中で誰かが止めたようである。
それを確認しようと顔をあげると、そこにいたのは竹中くんであった。竹中くんが、空き缶を拾い上げ、わざわざもう一度地面に落とし、踏みつけた。バリバリ。
「なんだ、まだやってたのか」
声が小さくてよく聞こえないがそう言ったようである。彼の纏う空気はまだ空が明るかったときよりも幾分か重苦しく、爽やかさなどは消え去っていた。やっとのことでなにか、返事をしようとした瞬間、僕は彼の隣になにかがへばりついていたことにやっと気づく。
それはまるで砂浜に打ち上げられて干からびたくらげのような物体。
「おまえいつまでやってんだよ、もう誰も通らないだろ?」
竹中くんが変な顔でそう言う。福笑いのような顔。
「おい、それかせよ、その、チラシ」
チラシって言った。ビラじゃなくて。
「こんなのなあ、」
おそらく竹中くんと女の子はあのままお酒を飲みに行ったのだろう。その場のアルコール度数が上がっているのが分かる。僕まで酔っ払ってしまいそう。タバコの煙を浴びるのは受動喫煙、では、酔っ払いの吐く息を浴びるのは、
「あははははは」
竹中くんはビラ(チラシ)を藍色に広がる空に向かってばらまいて、世にも楽しそうな笑顔を浮かべていた。ひらひらとなにかの花びらのように舞い落ちるビラ(チラシ)。僕は綺麗だとかなんだとか思った。脳裏にはお正月のしょうもない漫才。人間は凄い。人間は、死を覚悟したとき、それが例え肉体的な死ではなかったとしても、精神的なそれに過ぎなかったとしても、走馬灯という名のフラッシュバックをくらうのだと僕はそこで知る。へらあ、と不気味な笑みを浮かべる竹中君と、苦しそうにうごめく干からびたくらげ、のような、女の子。僕は心の死を悟っていた。幼少期から順々に巡る煌びやかな記憶は、紙と鉛筆、紙、鉛筆、紙、鉛筆、紙、鉛筆、紙、鉛筆、そして、爽やかな竹中君の笑顔。刹那、現実に引き戻されたのは、くらげが発した謎の低周波、ではなく、女の子のうめき声を聞いたからであった。
僕は吐く、という行為が怖かった。生まれてからずっと。誰かが吐いているのを見るのも、自分が吐くのも、1ミリの余裕もなく、受け入れられなかった。一度体内に取り込まれたものというのは、体内に存在するために姿を変えていて、それはすなわち、この世のものではない。言わばエイリアンである。それを、自分の意志とは別のところで排出する、排出せざるを得ない人間の様子が、僕には、人間に寄生したエイリアンがその体から無理やり飛び出す様に見えて仕方がない。人間の尊厳をなくしたその姿は、とことん弱く、情けない。人間として生まれてきた僕だ。人間でなくなってしまいたくない。だから僕は、道端に潜む敵の影に怯え、自身の中にその気配が感じられたときには、大量の胃薬と一緒にそれを飲み下した。爆音で鳴り響く鼓動、震える手、つーっとなめくじのように背中を這う汗。僕にとってこれ以上の恐怖はないのであった。くらげ女はただでさえ、くらげと女のハイブリッドだったのに、中からエイリアンまで出てきて訳が分からなかった。
僕は逃げた。気づいたときには逃げていた。そして、泣いていた。
くそーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと、ちゃんとしたひらがな表記で、そう、丁寧に叫んでいた。一刻も早く、ここから違うところへと逃げてしまいたかった。どこかに行きたいわけではない。ただ、逃げていたかった。逃げ続けていたかった。
いつか読んだ絵本の、ねずみばあさんなどという謎のキャラクターから逃げる主人公の男の子たちのように、彼らを取り巻くクレヨンの線のように、辺りは明るく、現実離れしていた。黄色と橙色の線が、絶え間なく続いていく。もうそこは、ビラを配っていた場所からはだいぶ遠いみたいだ。少し疲れて、スピードを下げると、なにか物音がする。人影が見える。目を凝らすとそれは、竹中君だった。目を疑う程に泣いている。体中の穴という穴から液体を排出した様子の彼からは、感情の爆発はもちろん、運動不足が垣間見えた。そうだよなあ、竹中君、階段上らないもん、いつもエスカレーターだもん、と、どこかで呑気な僕が言う。彼は僕と目を合わせると、やっとの思いでこう言った。
「ぼくもいく」
一笑に付してやろうとしたが無理だった。死まで覚悟した僕の心は簡単に報われてしまった。情けない。僕は、伸ばされた竹中君の手を取った。ふたりで走り出すと、黄色と橙色の線は勢いを増して僕らの周りをびゅんびゅんと飛び回った。それがなんなのかは、僕には分からない。しかし、なんだかとても心強いことのように思えた。それと同時に僕は思う。僕にはこの場所しかない。だけど、竹中君にはいくらでも逃げ道がある。逃げ続ける僕のことなど忘れて、別の道に逃げることができる。逃げることから逃げることができる。瞬間、喉が張り裂けそうに痛んだ。僕には、ぼくにはここしかないのに、竹中君には、ここもそこもあそこも、ある。一緒にしないでくれ。さも、僕と同じような顔をして走らないでくれ。
痛い、喉が。頭が。胸が。

意識を取り戻した頃には空はもう、明るくなっていた。
けたたましい着信音で目を覚ましたのだ。
状況を半分も理解しないままに、ぼけぼけと電話に出る。
知らない声が告げる内容はあまりにも空々しかった。
僕が書いた小説が、なにかしらの賞を受賞したという。もう、どの賞に応募したかも覚えていないが、きっとその中のどれかだ。無差別殺人犯を描いた、あの作品だろう。
これできっと、僕の居場所はなくならない。
変な気持ちだった。
僕の横には竹中君が眠っていた。
彼に報告しなくては、そう思いながら僕は、襲い来るまどろみに身を沈めた。

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