中根すあまの脳みその200

帰宅が遅れてしまった。
いくら足掻いても母親から落ちる雷から逃れることはできない。
今も尚、暗いリビングで彼女は、怒りという名の電気エネルギーを蓄え続けているはずなのである。
もう、少しくらい早く着いたって仕方がないのは分かっている。
まるで小さい子どもが嬉々として履く、間抜けな音の鳴るサンダルのように、踏み出す一歩一歩から、とぼとぼ、と音がしている気がした。

ちょっとどうかと思うくらいにボロボロの自転車に乗って、家を目指す。
身に付けた洋服や靴は今日も絶好調に派手な色をしていて、錆びた自転車とはどうしても釣り合わない。ミスマッチ感が逆に良い、とか、そんなことも言えない。
私の暮らす街には高い建物が一切ないので、空がよく見える。
まるで空に向かって自転車を漕いでいるようである。
別にそうしようとしなくたって空を仰いでしまうので、仕方なく夜空の様子を確認すると、非日常がそこにはあった。
空が、点滅している。
小さい頃に見ていたアニメは始まる前に必ず、「テレビから離れてみてね」というアナウンスがあった。フラッシュの点滅を近距離でみつめていた子どもが一斉に体調を崩したというニュースは、幼い私に少なからず衝撃を与えた。咄嗟にそのことを思い出した私は、いや、空からは離れられないし、と思う。
雷か。
それにしては、光の後にやってくるはずの轟音も、降り始めるはずの豪雨も(どちらも“ごう”がつくのが面白い)、その気配すら感じられないのである。
思い起こすのは2年前のこの時期。
外を歩いていて、やたら空が光っている場面に出くわしていた私は、その都度となりにいる人間に、ねえ空光ってない?と声をかけるのだが、いつも、曖昧な返事しか得られなかった。
そのときも、雷にしては轟音も豪雨もなく、結局正体が分からないままだったのだ。
しかし一度だけ、賛同を得られたことがある。確かに最近よく光っているよね、と。
思わずにやりと笑み浮かべる私、しかし、そのときにみた光は、ビルの高いところで輝くネオンの看板の仕業で、それに気づいたときには、なんとも照れ臭い気持ちになったのである。
大した記憶ではないのだが、空が光るとつい、そのことを思い出す。

光と音では光の方が早いと理科の授業で習った。
こんなにも光ばかりが先行していて、その分の音は一体どうなってしまうのか。
そう心配してしまう程に、空は光ることをやめない。
その光景は、まるで世紀末であった。
ああ、ついに、終わりが来るのか。
このままビカ――――と特大の光が差し込んで、呆気にとられるままに石化して動けなくなるのか。呆気にとられた顔のまま石化するのは嫌だが、どうせ誰もみないから構わない。
ちょうど、今ある立場を捨て去って、お金持ちと結婚して、年金とか税金とかそういったことを考えなくてもいい生活がしたいと思っていたから、ちょうどいいかもしれない。私はきっと、お金持ちとは結婚できないし。
そんなことを考えながら自転車を漕いでいたら、家についていた。そりゃそう。
だけど、不思議なことのような気がした。

ドアを開けて、母親と顔を合わせぬうちに風呂場へ逃げ込む。
やがて、耳に飛び込んできたのは、紛れもない“轟音”であった。
そして、豪雨。
どうやら先ほどまでの空の点滅は、正当に雷だったらしい。
なんとなく、がっかりした。

風呂から上がって窓の外を眺めると、先ほどまでの嵐が嘘だったかのように静かな空。
おまけに、澄まし顔の月までもがそこにある。
笑っちゃうくらいの日常だ。
しかし、全世界で私だけ、まだ、日常に戻ることが許されていない。
そう、母親の落とす雷に打たれる義務があるからだ。
私は、覚悟を決めるように、ひとつ息をした。

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