彼とカツカレー

今日は日曜日。
目が覚めて3秒で顔がにやけてしまったのは、今日がとっても幸せな日になると確信したからだ。
予定がない、やらねばならない仕事もない、そして天気は晴れ。そんな日曜日に誰が文句を言うというのだろうか。
もぞもぞと隣に眠る同居人が動く。同棲を初めて2年とちょっと。お互いにとって心地の良い関わり方というのが、最近やっとわかってきた気がする。
時計を見ると午前10時。もう少し眠っていたい気もするが、そろそろ動き出さないといけない。なぜなら、日曜日のわたしたちにはルールがあるからだ。ふたりの日曜日をしあわせなものにするためのルールが。
ベッドから抜け出して、コーヒーを淹れるためのお湯を沸かし、その間に歯を磨いて顔を洗う。お湯が沸いたことを確認したら、ふたつのマグカップにそれぞれコーヒーを注ぐ。
そこまで終えるとようやく彼が寝室から出てきた。髪の毛は寝ぐせで爆発しているし、顔はこれ以上ないくらいにぼーっとしている。その姿があまりにも『寝起きの人』の典型だったので、思わず笑ってしまった。
『なんだよ』
少しムッとして彼が言う。それがまた可笑しい。
『ごめん、なんでもないよ。はい、これ』
マグカップを手渡すと、彼は不思議そうに首を傾げた。
『あさめしは?』
『もうこんな時間でしょ。それに今日は…』
彼の少し不満そうだった顔が、なるほどと言いたげに微笑む。
『そっか、日曜だ。お腹空かせとかないといけないね』
わたしと彼は顔を見合わせて頷いた。
わたしたちの日曜日にはルールがある。
それは、最高の夕食、すなわち『ふたりでつくったカツカレー』を食べることだ。
わたしはカレーをつくる。
スパイスを炒めるところからはじめる特製のルーを、たっぷりの野菜(じゃがいもは溶けないように大きめ、にんじんは主張しすぎないように小さめ)と一緒にじっくりことこと煮込んだカレーは絶品だと自負している。
彼はカツを揚げる。
ひとり暮らしが長かった彼は自炊にこだわるようになり、特に好物の揚げ物の腕は近所の奥様方にも引けを取らない。衣がさくっと軽く、肉はしっとりジューシー。こてこてのカレーと合わせても重くなりすぎない、彼のこだわりが詰まったカツなのだ。
ふたりの得意技を合わせてできるカツカレーは夢のようにおいしい。
家事の分担だとかお金の管理だとか、煩わしいルールはすぐになおざりになってしまったが、このルールだけはふたりできちんと守ってきた。どんなに忙しい日曜日も、どんなに落ち込んだ日曜日も、どんなに激しく言い争った日曜日も。
コーヒーを飲み終えマグカップを洗ったら、わたしと彼は出かける準備を始める。
わたしは最寄り駅から3駅離れた大型スーパーへ、彼は近所の商店街にある肉屋へ、それぞれ向かう。彼いわく、スーパーで売っているような安物の豚肉と、ちゃんとした肉屋で手に入れる豚肉とでは味に大きく差があるそうだ。
毎週同じ肉屋に足繁く通っているため、肉屋の店主のおじさんと彼はすっかり仲良し。朝までふたりで飲み明かすことなんてしょっちゅうだ。さすがに飲みすぎだとは思ったりもするが、ふたりのカツカレーが彼の新しい交友関係を生んだと思うと、なんだか嬉しい気持ちになる。
彼とカツカレーに思いを馳せているうちにいつものスーパーに辿り着いた。自動ドアを通り抜けると、店内の冷気がわたしを包み込むと同時に様々な食材の匂いがせーので鼻に飛び込んでくる。
一番おいしそうな野菜を吟味し、カゴに入れてゆく。
おいしい夜になるだろうか、なるといいな。
そんなことを考えながら買い物を進めていると、時間はあっという間にすぎてしまう。頭の中がカレーのこと以外受けつけなくなるこの時間が、わたしはとっても好きだった。
買い物をすませて家に帰ると、彼がソファでかーかー寝息をたてながら眠っていた。買い物から帰ってすぐに眠ったらしい。カツの方がつくるのに時間がかからないからこんなに余裕なんだろう。少し腹立たしく思いながらも、そんな平和な日曜日にしあわせを感じ、ほくほくとした気持ちになった。
ソファの彼に毛布をかけて、さっそくカレーをつくり始める。野菜の下ごしらえをし、玉ねぎを飴色になるまで根気よく炒める。『飴色』という色は、実際に飴の色を表現するときと、玉ねぎを炒めるとき以外に使われることはあるのだろうか。小学生の頃に家庭科の授業でつくったべっこう飴の綺麗な透き通った茶色が脳裏に浮かぶ。玉ねぎを炒める度に思うことだ。
隣のフライパンからはスパイスの香りが柔らかく広がっている。その香りに刺激されたのか、彼がのそのそと台所にやってきた。
『よく眠れましたか?』
『おかげさまで』
そう言った彼は、冷蔵庫から豚肉を出し、下ごしらえをはじめる。
『トンカツってさ、』
せかせかと手を動かしながら彼が口を開く。
『トンカツって俺、最強の食べ物だと思うんだけど。だって俺の好きな食べ物ランキング、3位カツ丼、2位トンカツ、あっ、これはソースかけて食べるやつね。1位カツカレーだよ?全部トンカツじゃん』
『うーん、たしかにトンカツは強い。でもわたしはソースかけるトンカツより、カツ丼の方がすきかなあ。だって、いわゆるトンカツってキャベツがもれなくついてくるじゃん。あれ食べ切るのつらい』
『何言ってるんだよ、あのキャベツがいいんだろ。こってりソースのトンカツをさっぱりさせてくれる。トンカツ、キャベツ、白米、みそ汁、の順番に食べるのがいいんじゃん』
『うーん、わたしはキャベツとは仲良くできないなあ』
『でもトンカツとだけ仲良くしたらかわいそうだろ、キャベツも別に悪い奴じゃないんだから』
『わかった。キャベツに謝っとく』
『よろしい』
彼は、ふふっと笑った。
ふたりで台所に立ってどうしようもない会話をするこの時間が、わたしにとってなによりの息抜きなのだ。この時間を確保するためにも、日曜日のカツカレーはとても重要で大切だ。
あーだこーだ言っているうちに、鍋はぐつぐつと楽しげに音を立て、美味しそうな匂いがふわふわと漂っている。彼は鍋を覗き込んでうんうんと頷くと、熱々の油に衣をつけた豚肉を投入した。カラカラと小気味のいい音が聞こえる。わたしは、この世に溢れている様々な『音』の中で、トンカツを揚げるこの音がいちばん好きだ。彼も同じようなことをいっていたような気がする。カツが綺麗な黄金色に変身すると、油から引き上げ、キッチンタオルに優しくのせた。
わたしは慌てて炊きたてのごはん(もちろん大盛り)をカレー皿によそい、たっぷりのカレーをかける。あとはそこに揚げたてほやほやのカツをのせれば完成だ。
時刻は午後4時。わたしたちの夜ごはんは笑っちゃうくらいに早い。だって今日は、カツカレーをつくって食べるだけの日なのだ。何を待つというのか。今この瞬間に常識なんていらない。必要なのは食欲と、カツカレーに対する愛情だけだ。
食卓にカレー皿と、福神漬けをいれた容器、キンキンに冷えた水を置くとわたしたちは席に着いた。彼と顔を見合わせる。互いの顔に大事な仕事をやり遂げた達成感と、これからの食事に対する期待感が滲み出ている。彼は、にやっと笑って叫ぶ。
『いただきまーーーーす!!!』
『…いただきます!』
カツをひとくちサイズにして、カレーと一緒に口に運ぶ。サクッ…もぐもぐ。自然と緩んでしまう頬。『ほっぺたが落ちる』とはまさにこのこと。
あつあつのカレーはスパイスの香りが絶妙で、猛烈に食欲を掻き立てる。そこにサックサクの衣とジューシーな豚肉がよく合って、最高に贅沢なひとくちが完成した。やっぱりカツとカレーに手を組ませた人は天才だと、つくづく思う。
わたしのカレーも彼のカツも、今日はすこぶる調子がいい。それぞれの必殺技が綺麗にきまったのだ。無我夢中で食べ続け、わたしは2回、彼は3回のお代わりをし、最高の晩餐は終わった。
食べ終えたばかりなのに、もう舌があの味を求めている。来週の日曜日がたのしみになる。
わたしにとってカツカレーは、忙しなく世知辛い一週間を生き抜くための希望だ。

先週のカツカレーから一週間、今日は日曜日。
しあわせだったあの日と、そんなふうには絶対にならないであろう今日とを比べて、やるせない気持ちになる。
それでも日曜日にはルールがある。ルールはルールだ。守らなくてはならない。わたしはカツカレーの準備を始める。
許せなかった。どうしても許せなかったのだ。
一生をともに、たのしく、そして美味しく生きていきたいと願っていたのはわたしだけだったのか。美味しいものをつくることも食べることも特別に上手だった彼との生活は、わたしにたくさんの希望やしあわせを与えてくれた。
それなのに。
土曜日に、肉豆腐をつくった。
肉の質にうるさい彼を喜ばそうと、普段はスーパーで買う牛肉を商店街の肉屋で買うことにした。
昔ながらの雰囲気が漂うその肉屋でわたしは、奮発して一番高い牛肉を買った。会計をしてくれたのは、おばさんだった。おじさんの奥さんかな、となんとなくそんなことを考えながらお金を払う。なにか引っ掛かりを感じたわたしは、店を後にする前におばさんに話しかけてみることにした。
『すみません、いつもうちの同居人がお世話になっていまして…』
『はい?どういうことですか?』
『わたしの恋人がこのお店に毎週通っていて、店主の方と仲良しに…よく飲みに言っていると聞いているのですが…』
おばさんは不思議そうに首を傾げて言う。
『毎週来て下さるお客さんはいますが、わたしはお客さんと飲みに行くことはありませんね。』
『あ、たぶんあなたではなくて、男性の…』
『えっと、この店の店主はわたしですよ。わたしとわたしの娘のふたりで切り盛りしています。』
全身が嫌な予感に震えるのがわかった。どうにか冷静を装い、おばさんに礼を言って店を後にした。
彼の仲良しの、朝まで飲み明かすほどの仲である、肉屋の店主のおじさんは存在しなかった。
それでは一体、彼はその時間どこで何をしていたのだろうか。
家に帰っても嫌な予感は消えなかった。憶測は状況を悪化させる、すべては彼が帰ってきてからだ。そう自分に言い聞かせ、気を紛らわすようにそそくさと夜ごはんの準備を始めた。
買ってきた牛肉と豆腐とをたくさんの醤油と白砂糖でぐつぐつ煮込む。豆腐は商店街の豆腐屋で買ってきたものだ。美味しいと評判の豆腐らしい。
いつもより贅沢な食材たちにわくわくする気持ちと、さっきの肉屋のおばさんとの会話とが頭の中でぐるぐるして目眩を覚えそうだった。
豆腐にしっかりと色がついたので、火を止めて器に盛る。同棲を始めるときにふたりで買った、和風の器だった。かなり高かったのだが、彼が『これがいい』と駄々をこねたのでしょうがなく買ったのを思い出す。
どうか、嫌な予感が的中しませんように。しょうもない思い過ごしでありますように。わたしは完成した肉豆腐に願った。
食卓に肉豆腐とご飯、お味噌汁、作り置きのおひたし、冷たい麦茶を置く。ふたり分並べ終わったと同時に、がちゃり、玄関のドアが開く音がした。
『ただいま〜』
『…おかえり』
彼はネクタイを緩めながら、顔をほころばせて言う。
『うまそうだな〜。肉豆腐?』
『そうなの。今日は奮発して、いい牛肉買ってきちゃった。お豆腐もちゃんとお店のやつなんだよ』
『いい肉って言ったってせいぜいスーパーで一番高いやつってとこだろ』
馬鹿にしたような口ぶりの彼に、わたしは縋るような気持ちで言う。
『肉屋の店主、おばさんなんだね』
『え?』
『だから、あなたが日曜日に豚肉を買いに行く肉屋。おばさんとその娘さんが切り盛りしてるんだね。あなたの言っていた”おじさん”は一体…どこ?』
ぽかんと口を開けていた彼は、ようやく状況を理解したのか口を閉じ、眉間にしわを寄せたまま動かない。
『あなた、朝まで帰ってこないとき、あるよね?その時間はどこでなにを…』
『うるせえんだよ…!!!!』
『…え?』
彼の突然の大声と、その表情から伝わるあまりにも強い怒りがわたしの心臓を氷のように冷たくさせる。
『だいたいお前、俺と暮らし始めてから太り過ぎなんだよ!俺もお前も食べることが好きだから、お互い気をつけようって言っていたのに!だから俺はちゃんと調節したし、運動もした!それにおお前にだって何度も言っただろ?一緒にダイエットしようって!それなのにお前は…今じゃもう完全に別人だよ!』
悲しかった。悲しくてうまく声が出なかった。
震える声でわたしは尋ねる。
『浮気を、認めるってこと?』
『ああ、そうだよ。肉屋の店主なんて真っ赤な嘘。俺はあの時間、ホテルに行っていた。会社の後輩とな。ちなみに彼女、45キロらしい。』
彼の台詞が脳内で何度も何度も再生される。それと同時に頭の中で繰り返される、彼との思い出、一緒に食べて美味しかったものの記憶、そして何よりも、日曜日のカツカレー。
わたしの、希望。


食卓に並ぶ、いつものカレー皿とキンキンに冷えた水。
わたしは水をひとくち飲み、深呼吸をしてからカレーを食べ始める。カツに、いつもの軽い食感とジューシーさはなかった。衣はすこしベチョっとしているし、肉はスジだらけで噛みきれない。
のろのろとスプーンを口に運び、ようやく皿が空っぽになった。おかわりはしない。
こうして、わたしと彼の最後の晩餐が終わった。
食べ終わって初めて、彼とのルールを破ってしまったことに気づく。
だって、わたしが今日食べたのは、
カツカレーではなくて、カレカレーだからだ。
わたしにとってカレカレーは、忙しなく世知辛い一週間を生き抜くことができなくなってしまったわたしの、絶望だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?