中根すあまの脳みその105


心が忙しいとき、どうしても読書は捗らない。
読書好きを名乗り、本をお勧めするお仕事をさせていただいている私でも、そこは認めざるを得ない。

考えなければならない事柄(それは例えば、次のネタ見せで披露するネタが完成していないことであったり、書き終えるべき脚本の執筆が思うようにいっていないことであったり、夏休みに入ってから食欲が止まらず体の肥大化が著しいことであったり、まあそんなようなことである)が、脳内で渋滞を起こしていると、本を開いて文章を追っていても、思考があちらこちらへと散らばって、うまいこと内容が頭に入らない。みなさんもきっと、一度は体験したことがあるだろう。本を読んでいるつもりが、いつのまにか自分の脳内であれやこれやと思考を巡らせてしまっているようなことが。

本は、作品の世界へ没入することが難しい媒体である。まず、文字を読み、その意味を理解し、全体的な内容を噛み砕いて把握し、これはどうなるのかな?なぜこれはこうなのかな?などと思案しながら、ページをめくっていく。この作業には豊かな想像力が必要である。文字以外の情報をすべて消費者側が補わなければならないからだ。映画や音楽、演劇などといった表現方法であれば、視覚や聴覚、あるいは触覚を通して強烈な情報が消費者の体に流れ込み、思考を巡らす暇もなく、強引に作品の世界へ引き込んでくれるが、本となるとそういうわけにもいかない。己のもてる集中力を駆使して、己の足で作品の世界に1歩を踏み出さなければならないのだ。

それ故に、脳内が混雑している時、どうしても本を開く手は重くなる。しかし、それを後ろ向きに捉えたくないという気持ちが私にはある。
本は、消費者側の努力によって成り立つ作品の形であり、「手軽さ」という点においては他の媒体に劣っていると言わざるを得ないだろう。スマホ慣れした若者が活字から遠ざかっていくのも大いに頷ける。ただ、私が声を大にして言いたいのは、本は、己の記憶に強烈なインパクトを残すということだ。読んで理解して想像して、手間暇をかけて作品を味わう読書という行為は、もはやその作品を「経験」することと言っても過言ではないだろう。私たちが日常的に、色々な出来事を「経験」するのと大差ないのだ。だからこそ、本は記憶に残る。苦労した分だけ、長く濃く楽しめる。良い読書体験はそれを読んだ人自身の思い出となるのだ。

今、私の脳内は大変混雑していて、案の定ページをめくる手のスピードは日に日に遅くなっているのだが、そういうときは焦らずに、文章が入る脳のスペースを確保してから、再び本の世界に足を踏み入れたいと、そう思うのである。

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