中根すあまの脳みその108

もう8月が終わってしまった。
誰かに会う度に繰り返しているこの台詞は、時候の挨拶でも退屈しのぎでもなく、極めて真剣な、且つ悲痛な心の叫びであるということ、周りの人にはあまり伝わらない。

おそらく、いちにちの長さは短くなっている。前にもこの場所で同じようなことを訴えていたかもしれない(100回をこえたあたりから、どんな話でも、前にもこの話題について書いたかもしれない、という既視感を覚えるようになった)。予感は日に日に確信に変わり、今では、私が落ち着いた大人の女性になる頃(そんな日が来るなんて考えられない)にはもういちにちなんて存在しなくなるのではないかという懸念さえしている。
こういうことを言うと、時間は相対的なものだから、今の生活が充実していて、それ故に時間が過ぎるのが早く感じられるんじゃないか、などと我が物顔で言ってくる人が絶対に現れるのだが、私のこの「時間が過ぎるのがはやすぎる」という真剣且つ悲痛な心の叫びは、もはやその次元ではない。ありがちな理論で宥められて気が済むような、そんな程度の話ではないのだ。

冷静に考えて「長さ」が違っている。いちにちの、だ。1分だとか1秒だとか、そういった目視できる範囲の時間ではなく、もっと小さい、感覚では捉えられない程度のほんの僅かな一瞬がじわりじわりと短縮されているような、そんな感じがするのだ。
歳をとると時間の経過が早く感じられる。
それもよく言われるが、そんな能天気な問題であるとは、考えにくいのだ。その証拠として、私の周りにいる人間はみな、口を揃えて「もう9月になっちゃったよ」だとか「え?夏ってもう終わり?」だとか、もはやその言葉を口に出すことか常識だとでも言うように、皆口々にそう零す。「充実した日々を送っていると時間が早く過ぎる説」を推せば、現状、自分の生活が充実しているとは言えない人に関しては、時間の流れがゆっくりであるはずで、「歳をとると時間が早く過ぎる説」を推せば、特別若い人、すなわち小学生くらいの年代の子どもなどもまた、時間の流れはゆっくりであると感じているはずである。しかし、私の周りにいる、特にすることがなくいちにちの大半をベッドで過ごしている友人も、今をときめく小学生の妹も、例に違わず「もう8月が終わってしまったよ…」と嘆いている。
これは、私が幼い時とは明らかに状況が違っている。私が小学生の時は少なくとも、日々はゆったり余裕をもって過ぎ去っていったし、周りの大人が決めゼリフのように、早く過ぎ去る時間を嘆くこともなかった。

私はこの状況を重く受け止め、いちにちが物理的に「短く」なっているという証拠をなんとしてでも見つけたいと思っている。
人間は適応能力の高い生き物だから、きっと、一瞬ばかりの時間が奪われても気づくことはできない。それにつけ込んで、我々のかけがえのない時間を奪い去ってしまおうとしている悪者がきっといるのだ。
引き続き、感覚を研ぎ澄ませて生きていきたい。

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