ある病室

この国から人がいなくなった。
厳密に言えば、隠れた、の方が正しいのだが。
窓から外を見ると、その殺伐として美しい景色にふわふわと見入ってしまう。
やっぱり、隠れた、より、いなくなった、の方が合っていると、そんなことを思う。

「なんだ、お前も隠れるのか?」

からかうような声。

「隠れませんよ、ぼくは。この体で、無理やり隠れたところでその先はありませんし」

「やっぱりそう思うよなあ。でもさ、この病院からも大勢の患者が隠れたわけで。看護師をSPみたいに何人も従えてさ。おかしいよな」

「たとえその先がなくても、近い未来の恐怖からは逃れたい。きっと、隠れた彼らの方が人間らしいんだと思いますよ」

「近い未来の恐怖なんて、もう日常茶飯事じゃあないか。痛い注射、怖い手術、不味い薬、」

喋る彼の表情はわからない。
顔にぐるぐる巻かれた包帯から、動く口だけが見える。
彼はミイラだ。
ミイラはミイラだけど、とてもいい声をしていた。
低くて落ち着いていて、少し渋い、微糖のコーヒーのような声。

「俺に言わせちゃ、爆弾だって、そいつらと同じノリだよ」

「そうですね、なんだかぼくも、そう思います」

「強がってるんじゃないの?ミイラはともかく、あんたはまだ若いじゃない。きっと、人生、まだまだこれからよ?あんたはその、まだ、治る可能性だってあるわけだし、ねえ…?」

キンキンと尖った声が耳を刺す。ミイラとは正反対の、攻撃的な声だ。

「ぼくは、もう、いいんです。ぼくの治療にはたくさんの人の協力と、たくさんのお金が必要なんです。そうまでして治したとしても、それを挽回するだけの人生は、ぼくには待っていません」

「ふうん。まあいいわ。これであんたが治って、元に戻ったこの国で、社長にでもなって大成功したら、わたしきっと嫉妬に狂って大変だもの」

「性格が悪いのを、隠そうともしないんだな」

ミイラが苦く笑いながら言う。

「なによ、偉そうね。今さら隠して何になるの?ここにいるのは、もう、いろんな意味でどうしようもない奴らばかりじゃないの」

彼女はのっぺ。はじめて会った時にそう名乗った。
のっぺらぼうの、のっぺだ。
彼女には顔がない。

「また、やったのか?ははは、俺とお揃いだな、顔」

「うるさい、あんたといっしょにしないで。…駄目なのよね、最近。夜中になると発作のように自分の顔が嫌になる。」

のっぺは吐き捨てるように言う。
包帯をとる度に違う顔になっている彼女の、本当の顔をぼくは知らない。おそらく、この先も知ることはない。

「のっぺさんのもともとの顔、死ぬまでに1度見てみたかったな。オレ、それだけが心残りかもしれない。だってのっぺさん、絶対美人だもん。それにそのスタイルだって、」

「ちょっと、やめて、」
「おい!お前!」

へらりへらりとしたその声に、ぼくとミイラは同時に焦る。
のっぺの「本当の顔」について触れれば、彼女を深く傷つけることになる。
新入りの彼には分からないのだ。

「いいのよ、大丈夫。最近はなんだが、大丈夫なの。もうすぐ終わりが来るかと思うと、多少気持ちが楽なの。だってもう、可愛いあの子にも、かっこいいあいつにも会わずにすむでしょう?」

「失礼だなあ、のっぺさんは。オレだって結構イケメンなのに。びょーきだと思って油断してると、襲っちゃうかもしれないですよ?」

見開かれた目が、彼の普通ではないテンションをはっきりと示している。
今の彼はソウだ。躁鬱のソウ。
ソウでもウツでも、彼の事はほどほどに放っておくのが適切だ。

「あんたにはそんなこと出来ないって、わかってるから油断してるわよ。もし本当にそんなことがあったら、退院おめでとうのパーティーをしなくちゃね」

憐れむような調子でのっぺが言う。

「その時はおい、お前、ケーキ作れよ」

「なんでぼくなんですか」

「なんでもなにも、この中で料理を任せられるの、お前くらいのものだろう」

ぼくは、少し考えて、困って笑った。
ミイラとのっぺも、同じ顔をしていた。
ソウは、「オレだってできる!オレだってできる!」とギラギラした目で叫んでいる。

なんとも、いつものぼくらだった。
ぎりぎりぎり、と心臓が痛み出すところまでも、いつもと同じだった。

「おい、お前、痛むのか?大丈夫か?」

優しいミイラの声に、幾らか痛みがやわらぐ。

「ありがとうございます、大丈夫です。いつものですから。まったく気まぐれなんですよね、痛みってもんは。いつ来るかわからない、いつ去るかもわからない」

「ねえ、ハート、あんた本当に小学生?口調に可愛げが一切ないじゃない。おじさんみたいよ」

「…パパー、ママー、ごはんまだあーーー?」

「なんだそれ。棒読みにもほどがあるぞ」

「こどもが下手ね。やっぱりあんたはいつものままでいいわ」

「こどもが下手、か。変ですねぼくって」

僕はハート。心臓に穴が開いている。
産まれた時から、ずっとだ。

「俺を見ろ、変だろ?」

ミイラの口が、気障に吊り上がる。

「私もきっと、変だわ」

のっぺが首をかしげる仕草をする。

「…ボクも、ボクも変だ」

弱々しい声、ウツだった。
この短時間の間にソウとウツが入れ替わったらしい。

「あら、今日は登場が早かったわね、ウツくん」

「調子はどうだい、ウツ」

ウツは、ミイラの問いかけに、心底気分の悪そうな表情を浮かべている。

「…わかってて聞くんじゃないよ。君は本当に趣味が悪いね」

悲しみと怒りと脅えが入り混じった声で、ウツはこたえる。
「なんだよ、お前のことを思って聞いてやったのにさ」

お節介焼きなミイラはいつも、ウツに何かと言葉をかけては、納得のいかない顔をしていた。
ウツはとにかく捻くれているから、相手にするだけ損なのに。

「ほら、ね、ほっときましょう」

「そうよ。きっと、私たちとなんて話したくないのよ」

のっぺとぼくに制されて、ミイラはうーんと唸っている。

ウツは、いつも否定する。
自己否定を繰り返すことこそが、彼が彼を保つために最も重要なことなのだ。

難しい顔で黙りこくっている、ミイラ。
空間が静寂に包まれた。ゆっくりとした時間が、さらにゆっくりと流れている。


「怖くなってきたんだ、今更」

沈黙を破ったのは、意外にもウツの声だった。
「言葉」というより「震え」と言った方が正しいような、まるで存在していないかのような、弱々しさだった。

ぼくたちは黙っていた。

「…そ、そりゃあ最初は、いっそ死んじゃえばって、これはいいチャンスだって、そう思ったさ」

白い天井。
白い壁。
白い床。

「でも、でもっ。死んだらその瞬間に、脳みそがなくなり、意識がなくなり、ボクという存在がすべて、綺麗さっぱりなくなる」

白いベッド。
白い服。
白い包帯。

「ということは、どういうこと?ボクがずーっと抱えていた、しにたい、という願いは、叶わないってこと?叶っても叶ったことをボクは、認識できないってこと?」

白い空。
白い世界。

「ボクは、解放されない。最後まで、この、しにたい、という気持ちから」

死を待つだけのぼくら。
ぼくらだけの、世界。

「いやだあああああああ、そんなのいやだよ、あああああ、
いやだ、いやだ、いやだ、いやだああああああああああ」

ウツは泣いた。
ちょっとそれはどうなの?ってくらい、泣いた。
大声で叫び、涙を流し、鼻水を垂らし、泣いた。

だからぼくも、泣いた。
ミイラも、泣いた。
のっぺも、泣いた。
ちょっとそれはどうなの?ってくらい、泣いた。

「お母さあああああん、お父さあああああん、行かないでよ、心臓がおかしくたって、ぼくはぼくだよ、行かないでよ、」

「助けてやれなくてごめんなああ、俺だけ生きてて、ごめんなあああ、たすけてやれなくてごめんなああああああ、」

「すきだっていったじゃない、ねえどうして、醜くても愛してるってそう言ったじゃない、ひどい、ひどい、ひどい」


悲しい気持ちが、おしよせて、おしよせて、およせて、
吐き出すスピードが、全然追いつかなくて、
息が苦しい、のどが痛い。
横を見ると、人が泣いている。
悲しい気持ちが、また押し寄せる。
繰り返す、繰り返す、ずっと。ずーーっと。

ああ、頭が、まっしろだ。
なにもない。
声はもうない、涙ももうない、鼻水だってもうない。
泣くって、どうするんだっけ?
どうやって泣いていたんだっけ?

「どうやって、泣いていたんだっけ?」
「俺も今、同じことを考えていた」
「奇遇ね、私もよ」
「…ボクも」


顔を見合わせる。
なにかがぷちんと、切れる音がした。


「あはははははは、」
「ははっ、はははは、」
「ふふふっ」
「はは…ははは…」


ぼくは笑った。
みんなも笑った。
ちょっとそれはどうなの?ってくらい、笑った。


可笑しい気持ちが、おしよせて、おしよせて、おしよせて、
吐き出すスピードか、全然追いつかなくて、
息が苦しい、のどが痛い。
横を見ると、人が笑っている。
可笑しい気持ちが、また押し寄せる。
繰り返す、繰り返す、ずっと。ずーーっと。

そして、涙が溢れた。

「涙、出たな」

ぽつりと、ミイラが言う。
ぼくらは顔を見合わせて、笑った。


どかん!!!!
爆発音が聞こえる。


あれからぼくらは、みんなで手をつないで隠れた。
ゆっくり慎重に、支えあって、隠れた。
そこには、いなくなったはずの人がたくさんいた。
また、うるさくなった。少し嫌だった。


だけど大丈夫だ、変わらない。
ミイラと、のっぺと、ウツ(今はソウ)。
ここは、ぼくらだけの世界。


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