中根すあまの脳みその235

とある事情で学校の制服を着た。
自分が当時、実際に着ていたものではないのだが。
この格好をした今の自分が、どれだけの違和感を人に与えるのかを考える。
おそらくそれほど大きなものではない(と、信じたい)のだろうが、
それを着てしかるべき年齢の人間と並ぶときっと、その違和感は増幅し、強烈な印象を残すだろう。
輝かしい記憶ではなかったはずなのに、輝かしい記憶であったような気がする。
衣替えで久しぶりに見た夏服に、買った当時ほどのときめきを感じないのはきっと、
時代が流れていることに、いきなり気づくからだ。
制服などという象徴的なものだと、それがもっと強い。
強くて、悲しい。

周りにいた人々も、制服を着ていた。
不思議なのは彼らのいずれも、その姿が妙に馴染んでいたということだ。
繰り返すようだが、今まさにそれを着て生活をしている人と比べたらまた違うのだろう。
だが、同年代の人々に制服を着せて並べたとして、きっとこの人たちが与える違和感は少ない。
その場に居合わせたのは皆、芸人と呼ばれる職業の人たちである。
ぼんやりと思うのはきっと、彼らの過ごす日常というのは、制服を着ていた頃とあまり変わらないのかもしれないということだ。
そりゃあ大人なのだから、当時のようにうまくいかないこともたくさんあるだろうが、
あらゆる職種の他の大人と比べたとして、結果は明白、より制服が似合うのはやはり彼らだろう。
生き物としてとても魅力的だと思う。

生きていく中で、すべてのものを認識する必要はないと、そんなことを思った。
認識すればするほど、命が削れて若々しさが失われてゆく気がする。
きっと、そのせいで制服が似合わなくなる。
うまく生きようとするとどうしても、いらないものを省こうと、より短い時間で答えにたどりつけるようにと、目を見開いてすべてのものを取り込もうとしてしまう。
ある程度のそれは必要だとしても、なにも、それにこだわる必要はないのだ、きっと。
幼いころ、車の中で目を閉じたら、起きた時には目的地についていて、嬉しかった。
その感覚が大人になった今にあってもいいのかもしれない。
停滞しているときには目を閉じて、目的地に着くのを待ってみようか。
少し前なら到底思いつきもしない自分の思考が誇らしい。

制服を脱いで、なんかでっかいナンを食べたりして、やっぱりあの頃とあまり変わっていないと思った。


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