中根すあまの脳みその217

財布をなくした。
もうそれから、1か月近くが経ってしまった。
きっと、見つかることはないだろう。
生まれ変わらなければならない。
いろいろなものを新しくして、また、いちからやり直さなければ。
どうにも腰が重い。
生まれ変わる必要などなかったのだから、当たり前だ。
諦めが悪い私は、
今日、いや、明日にでも見つかるのではないかと、途方もない夢を見てしまう。

バイト先の商業ビルの通用口は、地下1階にある。
防災センターの窓から顔を出す警備員さんに挨拶がてら入館証をみせて、その横にあるポストを開け、中にある安全点検票を受け取り、エレベーターで7階の店に向かう。
店に着くと、その足でバックヤードにある照明のスイッチをカチカチカチカチとテンポよくつけてゆく。明るくなった店内を簡単に見回りながらレジへ向かい、なんとも形容しがたい、それでもなんとか収納スペースのような趣のあるそこへ鞄を置き、開店作業をはじめる。説明が遅れたが私の働く古着屋は恐ろしく散らかっている。しかも、常時ワンオペだ。私はいつも、そんな古着屋があってたまるものか、と思っているが、最近はそれにも慣れ、楽しむ余裕が出てきた。
と、言っている傍からその日はトラブル続きだった。
レジが、起動しない。
一旦落ち着いて、まずは電源を確認する。
あまりのタコ足っぷりに眩暈がするコード類を慎重に手繰るが一応電源は繋がっていた。
はああああん、めんどくさい。
店長に電話で確認すると、そのレジをなんとかするよりも、新しいレジを出した方が早いと言う(本当か?)。言われた通り、段ボールの山から、新しいレジが入った(レジってそんなにボコボコその辺に放置してあるものなのか?)箱を見つけ出し、うりゃあ、と悲痛な叫びを漏らしながらそれを運ぶ。
今日に限って客が多い。
信じられない話だが、売り上げは1日で1万を超えれば良い方で、昼間は客なんていないに等しいのだ。それなのに、レジが壊れた今日だけはなぜか、常に客がいる。
レジが使えないので電卓を使って計算する。あとでまとめて入力するのか。その事実に、じんわりと絶望。
客が途切れると、店長から電話。
レジが起動しないのは、延長コードに問題があるからではないかと言う(新しいレジを出すのではなかったか?)。私は再び、タコ何匹分か分からないそのコードたちを手繰り、延長コードを新しいものに取り換える。すると、レジは正常に起動した。
やれやれだぜ。
私は心でそう呟きながら、流れてもいない汗をぬぐい、水でも飲むかと鞄を探る。
ふっと、嫌な予感。
こういう時の嫌な予感ほど鋭いものはない。この鋭さがもっと早くに発揮されればいいのだが、やるせないことに、だいたいがもう手遅れになってからだ。
財布が、ない。
いやいやいやいやいや。
入館証。通用口を通るとき、入館証を見せたではないか。それは確実に財布に入っていた。ふざけたくまの柄をした三つ折り財布に。
ということは、だ。
通用口を通過した時点では財布は手元にあったのだ。
私は店長に事情を話し、店員不在の張り紙をして、朝来た道を慎重に戻った。
道のりに財布の姿はない。
防災センターで、もうすっかり顔なじみの警備員さんに事情を話す。
今のところ届いてはいないと言う。
しおしおと店に戻る。
それからの時間の心許ないこと。
新しく入った洋服たちの写真を撮り、採寸してゆく、そのひとつひとつの作業が億劫で、ついつい手を止めては、財布の影を求めて店中を探し回ってしまう。散らかった店内だ。思いもよらぬところから、ひょっこりとくまの柄が顔を出すのではないかと、飽きもせず夢想してしまう。
同じ階の他の店舗に聞いて回る。警察に届けを出す。
あらゆる手を尽くしたが、結局、退勤の時間まで見つかることはなかった。
しかたがないので、余った値札の裏に、財布の特徴と連絡先を書いて、帰りに警備員さんに手渡す。まるで、偶然出会った好みの相手に、連絡先をこっそり知らせるようだと、そうだったらよかったのにと、唇をかみしめる。

財布がない、というだけでなんだか生きた心地がしなかった。
財布があったところで一人前ではないのだが、“半人前”という感じが強くした。
悲しみや後悔のようなものは次の日にはなくなり、代わりに情けなさが残った。
あくまでも人生における新しい発見として、これらを友人に話したら、
いや…でも、大丈夫だよ!財布くらい…ね!
と、はちゃめちゃに気を遣ったフォローをさせてしまい、私はまるでミッフィーのように口を噤んだ。

財布は未だに見つからないが、澄んだ秋の空のおかげで私は元気である。
今さっき、新しい入館証を手に入れた。
紛失代の500円を払う時にはさすがに心が折れかけたが、大丈夫。
ピカピカの入館証を手に、私は今日も前を向くのだ。

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