中根すあまの脳みその106

睡眠欲とは、永遠に満たされない欲求である。
もちろん、睡眠によって肉体的な疲労が回復し、それを実感することによって満足感を得ることはできる。だか、精神的に睡眠を求める気持ちというのは、満たされることがないのではないか。というのも、眠りに落ちる時私たちの意識は当然失われており、普段と同じようになにかを感じたり考えたりすることは不可能である。人間は、眠りに落ちたということを明確に認識することはできないのだ。人間は、瞼を閉じ、意識を手放していた状態で時間が経過したという事実を、目を覚ましてから確認することで「私は眠っていた」のだと判断するが、それはもう「眠る」という行為が終わってからの判断なので、100%正しいとは言えない。そもそも、人間は「眠る」ということがどのようなことなのか、実感を持って知ることはない。だってどんなに頭のいい人でも、眠る時には意識を失ってしまうのだから。昨日の夜の私の睡眠だって、もしかしたら「意識を失う」という性質が共通した、なにか別の行為なのかもしれない。

精神的に睡眠を求める気持ちは、確かにある。解決の糸口が掴めない問題に悩まされている時や、あらゆる物事について思考を巡らせることに嫌気が差した時など、体が疲れていなくても、その状況から逃避したいという願望の終着点として睡眠を求めてしまう。しかし、そういった睡眠欲は眠っても眠っても満たされることはない。体の疲ればかりが癒され、度を超えた癒しが頭痛や腰の痛みに姿を変える。それでも眠ったという実感は得られず、時間だけが経過する。私が睡眠について考える時、さらさらとした水のような液体を連想するのは、掴もうとすればするほど逃げていく、実体の得られない性質がそうさせているのかもしれない。

睡眠のこのような性質は、「死」に似ている。
少々重たい話になってしまうのだが、自殺願望もまた、実感として得られることはないので「死にたい」という欲求も、永遠に満たされない欲求であると言えるだろう。
死ぬことを「永眠する」と言うように、「死」は「睡眠」の延長線上にあると捉えられている。
この前授業で扱ったモーリス・メーテルリンクの『青い鳥』でも、「死」は「眠り」の妹に位置づけられていて(これは色々な解釈がある。異論は認める)、それは、死に至る時の姿が眠っている時の姿に酷似していることが大きな所以だろうが、もしかしたら今私が挙げたような、共通した性質の存在もそこには含まれているのかもしれない。

今回このような話をしたのは、最近時間があるとあるだけ眠ってしまう自分の果てしない睡眠欲に驚き、いや、これはもしかしたら満たされたことなどないのかもしれないと考えたからである。
睡眠に対する考え方はきっと個人差が大きいだろうから、色々な人の話を聞いてみたいと思う、今日この頃である。

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