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イエスの本懐

「イエスの死は,神の恵みによって,すべての人のために味わわれたものです」(ヘブライ書2-9)
 
 この文章には,訂正すべき箇所が二つあります。

神の恵みによって


 この箇所には,写本によって二つの文章が存在します。一つ目は「神の恵み(χαριτι)によって」です。主要な写本(シナイ写本・バチカン写本・ベザ写本)はすべてこの読み方を採用していますので,原典聖書(ネストレ=アーラント28版)がこの文章を採用したのも頷けます。
 二つ目は「神から離れて(χωρις)」です。この読み方を支持するのは少数の写本のみです。が,古代教父であるオリゲネスやアンブロシウスらが支持しています。ここで注意すべきは,オリゲネスの存在です。彼は紀元3世紀の神学者で,主要写本よりも古い人物であり,しかも正文批評(写本を比較考量する作業)の創始者です。故に,「神から離れて」という読みを軽視するわけには参りません。
 外的証拠(写本の比較)によって確定できないのなら,内的証拠(写字生の心理)によって精査してみましょう。教会の写字生は,キリスト教の正統教義に合致するよう書き換える傾向があります。例えば,「イエスは怒った」を「イエスは憐れんだ」に書き換えたり,「父と子により」を「父と子と聖霊により」と書き換えたり。こういう視点から判断すれば,「神から離れて(χωρις)」を「神の恵み(χαριτι)によって」に書き換えることはあっても,その逆はないと思われます。なぜなら,神の愛を強調したいからです。
 しかも,「~から離れて(χωρις)」は,ヘブライ書著者の特愛の言葉です。以上により,この箇所の本文は,「神から離れて」を採用すべきでしょう。

すべての人のために


 この箇所のギリシャ語は,「υπερ(ヒュペル) παντος(パントス)」です。最初の言葉が「~のために」であり,続く言葉が「すべての人」を意味しています。注目すべきは,二番目の言葉παντοςです。この言葉は,複数形ではなく単数形で書かれています。もし複数形ならば,日本語訳聖書のように「すべての人のために」という意味で構いません。しかし,単数形であることにより,「どんな人のためにも」と訳すべきです。その違いは,複数形であれば人々を集団として見ているのに対し,単数形の場合は一人一人に目を注ぐ意味合いになります。つまり,この言葉の裏には,「たとえあなたがどんな人間であっても」という内容が込められているのです。

結論


 以上を踏まえまして,もう一度訳し直します。

「たとえあなたがどんな人であれ,イエスは神から離れて死なれたのです。あなたを救うために」

 イエス・キリストは,神の姿を惜しいとも思わず,私たちを救うために悩み多き人間の姿をとりました。地獄の底で苦しむ人間を救うために,神の栄光を捨てたのです。違う言い方をすると,イエスは,誰もが聖でないと考えた地(εξω της παρεμβολης)で血を流したのです。ならば私たちも,宗教的安全地帯から抜け出て,全人類救済のため前に進もうではありませんか(13-13)。
 カトリック教会は古代に成立しました。そして,エルサレムからイタリアのローマに達し,主にラテン人種を救済しました。プロテスタント教会は近代に成立しました。そして,ドイツからアメリカに達し,主にゲルマン民族を救済しました。しかし福音は,人種や地域に限定されるべきではありません。福音は,白人も黒人もアジア人も救うものであり,教会は全人類を覆うものでなければなりません。
 キリスト教はキリストに回帰するため,悪しき教会的権威主義,悪しき宗教的偏狭を脱しなければなりません。内村鑑三は,悪しき教会主義を脱するため「無教会主義」を唱えました。私は,悪しき宗教主義を脱するため「無宗教主義」を唱えます。いずれにせよ,無教会・無宗教の本質的信念は「全人類教会主義」です。
 

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