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仏教⑧修行

「善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事を楽しむ。」byブッダ


仏教の修行とはなんでしょう。仏教辞典などには、”真実の自己を実現するための行い”とあります。僧侶は出家する際に各宗派の特定の寺院で一定期間の修行をすることになっています。ただ、仏教の教えを学んでいる限り、修行は僧侶だけのものではなく、私たち誰もが行えることなのです。

修行の目的は”さとりを開くこと”です。お釈迦さまの記事でもお話ししましたが、形式上肉体的に苦しいだけが修行なのではなく、真の心の修行が必要なのです。とはいえ今回は、禅宗(曹洞宗)の僧侶が行う形式上の修行についてお話しします。

曹洞宗の修行の場ではたくさんの仕事がありますが、主に「作務」(さむ)「坐禅」(ざぜん)を行います。「作務」と呼ばれる作業は、掃除、庭の草取りや木の手入れ、畑仕事、書き物などです。中でも掃除は大切な修行で、黙々と専念することで雑念を取り払って心を整えることができます。私たちの生活にももちろん応用できます。心の汚れも一緒に落とすように、一心不乱に掃除する時間を設けるといいですね。

「坐禅」とは、正しい姿勢で座り、精神統一することです。心を落ち着かせて自分自身と向き合い本来の自分に気づきます。お釈迦さまは苦行を捨て、菩提樹の下で7日7晩坐禅を組み、さとりを開きました。私はヨガをするようになって初めて気がついたのですが、坐禅はヨガから始まったものでは無いかと思います。ヨガでも、今この瞬間に集中し、自分自身の気づきを得るのです。

ポイントは「調身、調息、調心」。姿勢を整え、呼吸、特に吐くことを丁寧に行うことで体の緊張を解きます。そして心を静め、整えます。ただそのうちに眠くなったり集中できなくなる時があります。「警策」(きょうさく)という棒で肩を叩く場面をご存知かと思います。あれは、原則として眠くなってしまった人が自分で合図をして叩いてもらいます。ドリフのコントのように、坐禅中に動いてしまったことへの罰則ではありません。

よく”心を無にする”といいますが、頭に何も思い浮かべないというのも難しい話です。頭に思い浮かんでは捨てる、浮かぶ、捨てると繰り返します。念をつないでしまうと、とらわれて取りつかれてしまい、自分を見失ってしまいます。

繰り返しになりますが、このような心の修行は僧侶のものだけではなく、私たち誰もができることであります。そして人生において少しの間、形だけ行ったのでは意味がありません。さとりを開くことだってできません。日々繰り返し繰り返し、今の自分と向き合うことなのです。


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