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ミヤコワスレ【 都忘れ 】

「いかにして 契りおきけむ 白菊を 都忘れと 名づくるも憂し」

鎌倉時代、順徳院の詠んだこの歌が、ミヤコワスレの名の由来といわれます。
倒幕を図った承久の乱で敗れ、父・後鳥羽上皇は隠岐島へ、兄・土御 門院は土佐へ、そして順徳院は佐渡へ流刑になりました。 
順徳院は、島で自ら育てた白菊を眺めることで、都を偲ぶ心を慰めたといいます。
また、白菊は後鳥羽上皇が愛した花でした(自らの印としても用い 、皇室紋章のルーツといわれる)。

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想像するに、都忘れと名付けた菊は、むしろ都を思い出させたのではないでしょうか。「ミヤコ」と名付けている時点で、忘れるのは無理ってものです。
「いつかまた都へ戻る」という、父兄と誓った再起を想っての慰めだったのか、ただただ昔を懐かしんでの慰めだったのか。忘れるといいながら、忘れることは決してない。なんとも切ない。

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そんなことを思い出すので、ミヤコワスレを見ると心がどこか遠くに行きがちです。
ただ、ミヤコワスレは、菊科の「ミヤマヨメナ」の園芸品種。 江戸時代に改良が始まったようなので、現代のミヤコワスレは、順徳院の愛でた都忘れとは、また少し違うようです。

余談ですが、小倉百人一首の百首目「ももしきや 古き軒端の しのぶに も なほあまりある むかしなりけり」は、順徳院がまだ京の都で暮らし ていた時代、天皇だった頃に詠んだ歌です。
「荒れ果てた御殿の古い軒端に、しのぶ草(シダ)が生えている。それを見るにつけ、かつて栄えた朝廷が 思われ、偲んでも偲び尽くせない」というような意味です(手元にある、学研まんが百人一首事典を参照しました)。


この歌を詠んだ数年後には、かつ ての栄光どころか、都での暮らしまで偲ぶことになるとは......。

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