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【コラム】🌹追悼 谷村新司さん ─ アジアの風、欧州の香り 🥎元朝日新聞記者 飯竹恒一 (2023/10/25) 🌸追い続けた夢/時流に反旗を翻す勇気/早過ぎる死【語学屋の暦】【時事通信社Janet掲載】

この記事は下記の時事通信社Janet(一般非公開のニュースサイト)に2023年10月25日に掲載された記事を転載するものです。


その人は七十路(ななそじ=70歳)を越えてなお、ずっと遠くを見据えていた。夢は遠くに投げて追い掛けるものだと歌った通り、それを自らに課すかのようだった。

なにしろ、往年の人気バンド「アリス」を昨秋から改めて本格始動させ、80代突入を承知で10年間ステージに立ち続けるという計画を掲げたのだから、ファンはその無謀さに驚きつつ、大いに盛り上がった。

しかし、今春、恒例のサクラの時期のソロ公演を前に急性腸炎の手術を受けたと発表があり、その後のステージはソロ、アリスとも、すべて延期されていた。1年遅れで開催されることを、自身もファンも願っていたが、その夢はついえた。


谷村新司さん。シンガー・ソングライターとして半世紀にわたって走り続けた74年の人生の散り際は、ファンはもちろん、音楽業界でじかに交流があった人たちにとっても、どこかつかみどころのないものだった。3人グループのアリスのメンバーの一人、堀内孝雄さん(73)でさえ、近親者による葬儀には参列したものの、10月8日に亡くなるまで本人から連絡はなく、自分から電話するのも手控えたままだったという。早過ぎる死もさることながら、そうして周囲と接触を断って再起を図った末に逝ったことが、むしろ大きな衝撃として受け止められている。

ただ、デビューした20代の頃から、一貫して「死」や「老い」と向き合って作品づくりをしてきた谷村さんのことだ。自らの最期について、何らかの美学をストイックに貫こうとしたのは間違いないだろう。

思い出すのは、言わずと知れた代表曲「昴─すばる─」(1980年)を含む同名のソロアルバムに、星が広がる夜空の下、愛する人を悼む通夜の光景を繊細に描いた「玄冬記─花散る日─」が収録されていたことだ。また、アルバム「ALICE XI」(2013年)に収録の「ユズリハ」は、春に若芽が出ると、前の年の葉が譲るように葉を落とすことに由来する「ゆずり葉」をテーマにしている。音も立てず、風のない朝に散る様子を描写し、残りの時間の短さを意識した時の覚悟を歌い上げている。

世代の変わり目の瞬間を、騒ぎ立てることなく静かに演出して自ら身を引くというのが、谷村流だったのかもしれない。

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1984年、東京ドームができる前の後楽園球場。そのスタンドの一角に私はいた。

出演は谷村さんに加え、「釜山港へ帰れ」で日本でも知名度があった韓国のチョー・ヨンピルさん(73)、そして、香港のアラン・タムさん(73)。「PAX MUSICA」(パックスムジカ=音楽による世界平和)と銘打ったプロジェクトの初公演は、超満員の大盛況ではなかった。むしろ、「谷村さんは何を始めるのだろう」と不思議に思ったのを覚えている。異国の言葉の熱唱が夜空に響くのを聞きながら、同じ後楽園球場で1981年、アリスが活動停止をする際の3人だけコンサートを開いた時とは、異質な世界が広がるのを感じていた。

しかし、その大胆な試みこそが、その後、昴が「星」「Star」と中国語や英語に訳され、中国をはじめとするアジア各国で広く知られるようになる出発点になった。自身の聞き語りをまとめた1993年の「本当の旅は二度目の旅」(講談社)にこんな発言がある。

「10年くらい前、アジアで歌いはじめたときに、『何を考えているんだ』と言っていた人たちが、2年くらい前から『やっぱりアジアだよね』なんて言いはじめました。でも今アジアが音楽市場としてもうかるという発想で行ったって、むこうだって構えてしまう。そして、日本人は信用できないということになる」

既に1981年、アリスは北京公演を実現させていて、その際、天安門広場でサンバ調のアリスの曲「ラ・カルナバル」(1980年)を歌ったことは今も語り草だ。2004年から中国・上海音楽学院初の外国人教授として教壇に立ったことや、2010年の上海万博で昴を歌ったことは、死を悼む中国をはじめとするアジア各国のメディアでも報じられている。

上記の本でこんなエピソードが紹介されている。

「… 香港では、現地のスタッフが照明をやっていて、ピンスポットを出さなきゃいけないのに、ピンがガタガタ動いている。ぼくは『おい、ピンしっかりしろよ』と言いに行ったら、感動で泣いているわけです。照明器具を押さえながら、鼻をすするたびにピンが動く。それを見て、うちのスタッフも涙ぐんでいる …」

また、2017年の上海公演の模様を伝える現地発の英文記事に、こんな記述があるのも印象深い。

「メロディーが流れ始め、レスリー・チャンの大きな写真が背景に映し出されると、2017年6月1日夜、上海大劇院で行われたこのコンサートの会場にいたほぼ全員が泣いた。アジアのポップミュージックのアイコンであり、日本のシンガー・ソングライターである谷村新司は、コンサートの最後の曲として代表曲『花』を歌い、広東語でこの曲を見事にカバーした往年の香港のスター、故レスリー・チャンに敬意を表した」(When the melody started and the huge photo of Leslie Cheung appeared on the backdrop, almost all those present cried at this concert at the Shanghai Grand Theatre on the night of June 1, 2017. The Asian pop music icon and Japanese singer-songwriter Shinji Tanimura sang his representative work “Flower” as the finale of the concert, extending a salute to the deceased Hong Kong star, who performed a beautiful cover version of the song in Guangdong dialect.)


「花」という曲は、永遠に散ることのない花を人は愛するだろうかと問い掛け、命に限りがある儚(はかな)さゆえにむしろ愛されるだろうと言い切る内容だ。テレサ・テンさんらアジア各地でいろいろな歌手がカバーした昴と比べれば、日本ではそれほどの知名度はない作品かもしれない。しかし、谷村さんのこの死生観がアジアの一線アーティストやそのファンとの間で共有されたとすれば、異国に果敢に挑んだことが、大きく結実したものだと言えるだろう。

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今回の訃報に接して思い出したのが、谷村さんがかつて、2018年に94歳で亡くなる直前までステージに立ち続けた仏シャンソン界の巨匠シャルル・アズナブールさんを慕う思いに触れた上で、「あと20年は歌わなくては」と語ったことだ。

アジアにおけるような知名度には至らなかったが、欧州の成熟した土壌を、谷村さんは大いに意識していたのだろう。

その点、「ここから3年出すアルバムは売れないからね」とレコード会社に言ったという逸話があるのが、いわゆる「ヨーロッパ3部作」だ。3年間で3枚のアルバムを作ったもので、ロンドンでロンドン交響楽団と「獅子と薔薇」(1988年)、パリで国立パリ・オペラ・オーケストラと「輪舞―ロンドー」(1989年)、ウィーンでウィーン交響楽団プロジェクトと「Price of Love」(1990年)をそれぞれ録音して発表している。


谷村さんはこれを「時代に関係なく生きる」ことの一貫だと位置付けていた。時に時流に乗りつつも、それに反旗を翻す勇気が必要な時もあるということだろう。

ウィーン公演を収録した映像で、谷村さんは、アルバムを共に手掛け、公演でも共演した作曲家で指揮者のクリスチャン・コロノヴィッツさんについて、もともとはクラシックに反発していた人だったと紹介した。

「ウィーンでは音楽とはクラシックが常識だが、彼曰く『モーツアルトもあの頃はきっとポップだと虐げられていた。でも、時が流れれば、クラシックとして受け入れられる』」

谷村さん自身、この3枚のアルバムに込めた思いと重なるものがあったのだろう。

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ところで、アリスがヒット曲を連発し、コンサート会場が満員になる中、1981年にあえて活動を停止したことは、強烈な出来事として思い出される。堀内さんが谷村さんの死について報道陣のインタビューを受けた際、次のように語っている。

「アリスを10年やって先々を見つめた時、『チンペイさん、辞めようかと思うんだけど』と言ったら、『そんなに軽々しく言えるのか』と言われた。『ぼくも考えた揚げ句、結論に達したんです』と言うと、『そうか、おれからキンちゃんに伝えるから』」

谷村さんは結局、「アリスは解散じゃなくて一時停止だ」と復活の余地を残したうえで、「好きにやってみろ」と励ましてくれたのだという。

チンペイは谷村さんの愛称。キンちゃんはアリスのもう一人のメンバーで、ドラムなどパーカッションの矢沢透さん(74)のことだ。堀内さんはベーヤンと呼ばれている。

実は私自身、アリスが20年ぶりの公演を神戸で開いた2001年、人づてに谷村さんと2人で話す機会を得た。今でも鮮明に覚えているのは「ベーヤンも苦労して…」という一言だった。堀内さんがソロ活動で「愛しき日々」(1986年)などの演歌・歌謡曲路線に転じ、新境地を打ち立てたことを指していたのだろうが、今回の堀内さんの発言を改めて聞き、谷村さんの言葉の意味が分かったような気がした。

10月15日の葬儀で堀内さんは、自らしたためた手紙を棺の中の谷村さんの胸元に入れ、手を合わせたという。

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往年のアリスのヒット曲を演奏し、谷村新司さんをしのぶファンたち=10月20日、東京・JR浜松町駅近くの「ライブイン隠れ家」(撮影・飯竹恒一)

谷村さんの訃報で音楽業界やファンの動揺が続く中、筋金入りのファンたちが追悼の演奏で盛り上がる集いが10月20日夜にあると聞き、会場の東京・JR浜松町駅近くの「ライブイン隠れ家」に出掛けた。

「チャンピオン」(1978年)など、往年のアリスのヒット曲が演奏される合間、悲痛な表情でステージに向かう男性(61)がいた。ギターをつま弾きながら歌い始めたのは、何と、このコラムの冒頭で紹介した「玄冬記─花散る日─」だった。私自身、10代で初めて聴いたこの曲を、谷村さんを偲(しの)びながら、こうして一緒に口ずさむ日が来るとは、想像もしていなかった。

隣に居合わせた鳥居弘克さん(59)は、後楽園球場のPAX MUSICAの会場にいたと語ってくれた。「あの日、一緒だったのですね」と、時空を超えた縁を喜び合った。

ベースの岡田圭介さん(56)とギターやキーボードの沖野功さん(57)のコンビが仕切り役となり、「アリスナイト」と銘打つこの集いが10年以上続いてきたという。集まった10人余の仲間たちは「年内にもう一度やろう」と活動の継続を誓い合った。

「70、80になっても歌い続けて、懐メロ番組には出ないで、現役でやっていたいと思う」。40代の谷村さんは、かつてそう語ったという。常に新しい境地に挑戦し続け、昨年は激しいロック調の新曲「夢のその先」を発表したばかりだった。

夢のその先には到達できなかった。しかし、谷村さんは早過ぎる死ゆえに、伝説になって私たちの心の中に息づくと信じたい。

飯竹恒一(いいたけ・こういち)
フリーランス通訳者・翻訳者
朝日新聞社でパリ勤務など国際報道に携わり、英字版の取材記者やデスクも務めた。東京に加え、岡山、秋田、長野、滋賀でも勤務。その経験を早期退職後、通訳や翻訳に生かしている。全国通訳案内士(英語・フランス語)。


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以下の写真は、往年のアリスのヒット曲を演奏し、谷村新司さんをしのぶファンたち=10月20日、東京・JR浜松町駅近くの「ライブイン隠れ家」(撮影・飯竹恒一)



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