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Episode 066 「イタリア人、ギリシャ人、オーストラリア人の中で唯一のアジア人」

音楽に対する情熱は高まる一方で、ハイスクールが始まってから(Eposode022)の2年は、正直、まだあたふたしていた。授業に関しても相変わらず数学と美術以外は手こずっていた。やはりペニントンプライマリースクール(Episode014参照)とは比べものにならないくらいみんな(生徒)の喋るスピードは速かった。

英語をネイティブに話す子供達の英語を聞き取るのは極めて難しかった。そんなこともあり、休み時間は退屈だった。特にやる事もなく、7、8人で立って話しをするという感じなのだが、別にまだ英語もそんなに進んで話す訳でもなかったので、何となく大人しくしていた。大人しくしている以外の過ごし方が特になかった、という表現が正しいかもしれない。

もちろん、ものすごくつまらなかった。校舎と体育館の間にあるスペースにベンチがあり、そこにたむろしながら、とくに何をすることもなく時間をつぶす形だった。そんなある日、何かのきっかけでサッカーを校庭でやっているとの事で仲間に入れてもらった。その日をきっかけに、学校の生活が楽しくなった。友達の輪も広がった。ネールスワースライマリースクール(Episode004参照)およびペニントンプライマリースクール同様、またもやサッカーに救われたのである。また、このタイミングで学校のサッカーチームにも入る事になった。チームのほとんどがイタリア人またはギリシャ人であった。

その他には、オーストラリア人もちらほらいたがアジア人は私を含めて数人いるかいないかであった。殆どのオーストラリア人はオーストラリアンフットボールまたはクリケットをやっていた。因みにクリケットは、日本ではあまり馴染みがないが、世界的に見るとプレーヤー人口は世界3位と、あまりにも人気のスポーツなのである。尚、アデレードハイスクールにいたアジア人の多くは(想像通り)バドミントンまたは卓球をやっていた。

アデレードハイスクールのサッカーのチームに関しては、正直、そんなにテクニックのレベルは高いとは思わなかった。しかし、スピードであったりパワーに関しては目を見張るものがあった。どの選手も10代半ばにも関わらず、しっかりと筋トレをしており強い身体を作り上げていた。

また、このチームでペニントンプライマリースクール以来(Episode020参照)、二人目のアフリカ出身の友達ができることになるのだが、彼のプレースタイルは今までに見たことのないプレースタイルで正直、驚いた。名前をサリモンといった。身体の線は細いのだが、テクニックは素晴らしかった(控えめに言っても、飛び抜けていた)。

とある日、休み時間にサッカーをしていた時、彼が私を目掛けてドリブルをしてきた。一対一になる形になった。彼はドリブルのスピードを急に落とし、何と突然しゃがみ込み、手でボールを拾う体勢をとった。そう、ちょうど道を歩いている際に、靴ひもがほどけている事に気がつき、結ぶためにしゃがみ込む様な形である。そんな、摩訶不思議な行動を目の前にして、私は「ん?何をしているんだこいつは?ボールを拾うのか?ハンドだろ」と思っている隙に一瞬で立ち上がりトップスピードで私を抜き去った。今までに見たことのないフェイントである。抜かれて悔しいという感情よりも、純粋に感心してしまった。感覚が圧倒的に何かが違うと感じた。

アデレードハイスクールでは、やはり8年生(中学2年生)と9年生(中学3年生)の2年間よりも、10年生(高校1年)から12年生(高校3年)の3年間の方が比べ物にならないくらい楽しかった。10年生になり(オーストラリアに来て、約4年目なので、2000年だ)やっと英語にも慣れてきて、自分が言いたいことなどがなんとなく喋れるようになった、と自信が持てる様になった。

アデレードハイスクール(Episode023参照)で一番最初に仲良くなったのはオーストラリア人のステファンという男の子だった。確か8年生か9年生の頃に仲良くなった。その他にも、オーストラリア生まれのカンボジア人、マイケルとも仲良くなり、週末なども遊んだりした。私の当時の友達の多くは、彼らの親の世代からオーストラリアに住んでいた為、アジア人でありながら生まれはオーストラリアというケースが多かった。こういったことから、マイケルの家では両親は子供たち(マイケル含む)にカンボジア語で話し掛け、それに対し子供達は英語で返答する、という形が取られていた。

日本では、(少なくとも日本人の家庭内では)日本語で会話がなされることが当たり前となっているが、オーストラリアでは様々な形のコミュニケーションがあることを子供ながらに感じたのであった。この様に、日本にいた時とはあまりにも環境が違い、オーストラリアに渡って数年が経ったタイミングではあったが、やはりそれでも驚きの毎日が続いたのだった。家族内での会話が、一つの言語でなく複数の言語が混ざった状態で行われている、というこの状態は、アデレードに行くまでの自分の中では全くもって考えられなかったことであったが故、世界の広さを目の当たりにした瞬間でもあった。

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