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『悪は存在しない』と『ドライブ・マイ・カー』

 濱口竜介監督の作品を立て続けに2本見た。一本目が『ドライブ・マイ・カー』で2本目が『悪は存在しない』である。まず、日本の現代邦画界に産み落とされた濱口隆介という才能の存在を祝せずにはいられない。これほどまでに作りこまれた脚本のテクストをかける人物は日本に存在しなかった。それは監督の作品がことごとく海外の映画祭で受賞していることからもわかることである。『ドライブ・マイ・カー』での車内の会話シーンは私に村上春樹を初めて読んだ時のようなみずみずしくそれでいて悲しみをたたえているような重厚なテクスト感をそのまま思い起こさせてくれた。『悪は存在しない』の住民説明会のシーンではそのリアルさに息を撒いて、会社の役員が車で村に向かう時の会話はある種の人間の野次馬根性すら引き出させるようなもっと聴いていたい会話であった。正直なところ、常日頃から私は日本映画と海外映画の決定的な違いは会話劇としての完成度の著しい相違であり、邦画はその点洋画に非常に劣っていると感じていたので、初めて『ドライブ・マイ・カー』を鑑賞したときはそのテクストの完璧さに息を撒いたのだ。友人からいい映画だいい映画だと言われ続けてはいたが日々の雑事に気を取られてなかなか見る気が起きなかったのだが、新作が公開されるとのことでやっと重い腰をあげて一作だけ見てみることにした。ここまで日本にセリフ回しをかける人間がいたのかと言うことに嬉しくなった。平たく言うと観客に「せりふ回しのリアル」をどれだけ感じさせられるかで映画の完成度が大きく異なってくると思う。私たちが洋画を見る時画面上で男と女が繰り広げている会話をきいてもいわゆる「あるあるネタ」ではないのだが、邦画においてはせっかく同じ日本語を使っているのだからぜひとも「あるある」を感じさせる作品に出合いたいなと思っていて、『ドライブ・マイ・カー』ないし『悪は存在しない』はこの欲望を大いに満たしてくれる作品であった。ただ、『悪は存在しない』はそれ以外のカットや脚本にはあまり納得がいかなかったというのが正直な感想である。映像作品のカット割りや構図には必ず「作為性」が必要だと思っていて、それは「リズム」にも通底する。リズムは風景や人間をただ写したものを連続的につなげても生まれない。ということがよくわかる。黒沢清の『CURE』は台詞が少なく、ルーズショットや長回しを多用してあそこまで面白い「リズム」を作り出している。濱口竜介の作品は彼が師事していた黒沢とはもはや真逆で、会話によって作り出されるリズムが作品の大部分を支配している。濱口はこれが日本映画界でトップクラスにうまい。しかし、『悪は存在しない』では一方ではこれがうますぎるにもかかわらず、それ以外の花の一人遊びのシーンや難解なラストのような会話のないシーンでリズムを作り出すことに成功しているとは言い難いと感じた。『ドライブ・マイ・カー』はもともと最初から会話のリズムだけで全体が構成されるような脚本であったのでそういった「行為」を描写する必要が無かった。しかし、『悪は存在しない』には題にもあるように「悪」というある種価値観のついた用語をテーマにして、「行為」を描く必要があった。「行為」を描写しきったうえで、いかに心地よい「リズム」を作り出せるかが監督の挑戦だったのだと思う。しかし、個人的にはそのような試みの結果としてはあまり評価することができなかったが。単なる動画の連続に見え、作為性はあまり感じられなかったところである。しかし登場人物の台詞と言う形で立ち現れてくるテクストのリアリティは本当に素晴らしい。もちろん、新作でわざわざ新しいことに挑戦した濱口監督も、非常に素晴らしい。これからも素晴らしい映画を作り続けてくれるだろう。


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