本と末13 末の重要性

根本が重要であり、根本が備われば自然と末端が充実すると述べた。そして根本が忘れられ末端のみに走るようになると害が生じると述べた。では末端は不要か。

一見今までの論述と矛盾するようだが、末を軽視してはいけない場合は非常に多い。

劉備の人生を例に解説する。「人徳」→「人材」→「土地」→「財産」→「大業」の本末の連鎖はすでに解説した。人徳があると自然とそれを慕って有能な人材が集まり、有能な人材が集まると自然と領土が増え、領土が増えると税収が上がり財産が増え、財産が増えると民の生活を安定させられる。大業が完成する。これは曹操の人生に当てはまる。

劉備は根本たる人徳を備えていた。しかし彼は勇敢な豪傑ばかりを信頼し合理性を持つ知者を軽視した。知者が集まらなかった。「人徳」の段階から「人材」の段階に移行しなかったのである。そのため「人材」の後の「土地」にも到達せず領土は拡大しなかった。彼が大業を成したのは孔明と言う知者を得てからである。

確かに大業をなさなくても偉大な徳という根本を持っていた劉備は偉大である。しかし大業を成すという末端も重要である。それをしないと劉備の徳により民の生活を安んじることができない。末端を軽視してはいけない例の典型だ。

ビジネスでも同じだ。「社会に役立つアイデア・技術がある」→「良い商品・サービスがある」→「営業がうまくいく」→「売上が上がる」という本末の連鎖がある。

根本たる良いアイデア・技術を持っているのはとても素晴らしい。しかし最終的に末端たる売上げにつながらないと世の中にその価値を届けることができない。ビジネスとしては成立しない。それはアイデア倒れである。やはり末端も重要であるのが分かる。

『耳をすませば』というアニメで小説家志望の少女が出てくる。名を雫という。彼女がバイオリン職人の爺と雫の会話が印象的。

爺は雫にエメラルドの原石を見せる。

爺「緑柱石といってね。エメラルドの原石が含まれているんだよ。」
雫「エメラルドって、宝石の?」
爺「そう。雫さんもその石みたいなものだ。まだ磨いてない、自然のままの石。私はそのままでもとても好きだがね。しかし、ヴァイオリンを作ったり、物語を書くというのは違うんだ。自分の中に原石を見つけて、時間をかけて磨くことなんだよ。手間のかかる仕事だ。」

雫の個性という原石が小説づくりの根本。それを磨いて作品ができる。その内容が十分あれば芥川賞をもらう。有名になり発行部数が伸びて印税が手に入る。

「個性」→「作品」→「芥川賞」→「売上」という本末の連鎖がある。

根本たる個性が最も大事であるが原石で終わってしまってはあまり意味がない。優れた作品を作る必要がある。さらに芥川賞をとれば評判になり多くの人に作品を届けることもできる。やはり末端を軽視してはいけない。

ここで注目すべきは爺の次の言葉。「自然のままの石。私はそのままでもとても好きだがね。」

大多数の人は芥川賞をとって有名になった後でしかその小説を評価しない。少数の人は優れた作品ができた時点でその小説を評価する。さらに少数の人が原石の時点で評価する。この爺は原石の時点で評価する優れた目利きである。この爺は作者宮崎駿の分身である。宮崎駿は恐らく優れた目利きである。

アイドルでも大多数の人は有名になってから評価する。少数の人はそのアイドルが育ってから評価する。本当に目利きの人だけ原石の時点で評価する。

劉備も同じである。多くの人は劉備が大きな領土を得た後でないと彼を評価しない。しかし曹操のような英雄はそれ以前から劉備が原石であった時点で評価している。「天下の英雄は君と余だ。」と曹操はうだつの上がらない劉備に対して言った。原石の時点で評価した人は優れた目利きとして名を残す。

『荀子』天論篇に次の言葉がある。

書下し文
天に在る者は日月より明らかなるは無く、地に在る者は水火より明らかなるは無く、物に在る者は珠玉より明らかなるは無く、人に在る者は礼儀より明らかなるは無し。故に日月は高からざれば則ち光輝も盛んならず、水火は積まざれば則ち輝潤も博からず、珠玉は外に著われざれば則ち王公も以て宝と為さず、礼儀は国家に加わらざれば則ち功名も明らかならず。
現代語訳
天にあるものでは日月が最も明らかであり、地上のものでは水火が最も明らかであり、物のうちでは珠玉が最も明らかであり、人間の中では礼儀が最も明らかなものである。そこで、日月は高くなければその光輝も盛んではなく、水火は積み上げなければその輝きと潤いを広く施せず、珠玉も地上にあらわれなければ王侯によって宝とされない。


太陽や月のように光り輝くものも沈んでいてはいけない。天高くのぼらなければ地上をくまなく照らすことはできない。同じように偉大な人徳をもつ劉備も大業をなさなければその人徳で多くの民衆を救うことができない。世の中に役立つアイデア・技術もビジネスとして成功しなければ多くの人に価値をもたらし社会貢献をすることはできない。優れた個性を持った小説家も芥川賞をとらなければ多くの人に読んでもらい自分の感動を伝えることができない。

この荀子の言葉は儒教としては珍しく末端の重要性を述べている箇所である。現実主義者たる荀子らしい言葉だ。

私のスタンスは「根本は重要だが末端も重要である。しかし根本のほうが末端より重要だ」となる。恐らくこれが正しい。以下私の造語。

根本なき末端は空虚であり、末端なき根本は現実化しない。

根本なき末端とは例えば董卓のように根本たる人徳を持たない者が末端たる強力な軍事力を持った場合である。これは空虚であり害である。さらに長続きしない。

社会貢献をまったく伴わないビジネスも同じだ。根本たる「社会に役立つアイデア・技術」なしに末端である売上だけ生じるビジネス。根本なき末端であり空虚であり長続きしない。

内容のない売れた小説も同じ。個性という根本なしに売上という末端だけが充実する。これも空虚であり長続きしない。

逆に末端なき根本は例えばうだつの上がらない劉備である。末端たる大業に至らなければその偉大な人徳は現実世界で意味を持ちえない。末端なき根本は現実化しない。

アイデア・技術だけあってビジネスとして成功しない企業も同じ。末端なき根本だ。末端たる売上に至らなければ現実世界で意味を持ちえない。

原石のままの小説家も同様。根本たる個性だけあっても優れた作品を仕上げそして売れなければ現実化しないのである。

理想主義者ほど根本を重視し、現実主義者ほど末端を重視する。

小説家の例で「個性」→「作品」→「芥川賞」→「売上」の本末の連鎖を挙げた。理想主義者は根本を重視する。小説家の作品が出来上がっていなくてもその個性だけで評価する人もいる。個性とは人間性である。それよりやや現実的な人は優れた作品を見て評価する。作品とは芸術性である。さらにより現実的な人は芥川賞をとった後に評価する。芥川賞は名誉である。個性作品などの内容よりも名誉を重視する人はこれにあたる。最も現実的な人は売上や印税で評価する。売上とは金だ。「・・で、いくら稼いだの?」という質問をする。

「個性」→「作品」→「芥川賞」→「売上」とは「人間性」→「芸術性」→「名誉」→「金」と言い換えられる。

私のスタンスをついでに書いておくと私は作品を評価する場合が多い。内容を理解できない場合は芥川賞をとったと聞いて「へ~すごいんだ。」と思うが、多くの場合は作品を見て評価を決める。作品になる前の個性だけで評価できるときもあるがなかなかできない。

ビジネスでも「社会に役立つアイデア・技術がある」→「良い商品・サービスがある」→「営業がうまくいく」→「売上が上がる」という本末の連鎖がある。理想主義的な人ほどその会社の理念や思想にほれ込む。それよりやや現実的な人はその会社の商品やサービスにほれ込む。もっと現実的な人はその会社のブランド力や社会から受ける尊敬度などにひかれる。最も現実的な人は会社規模や売上を重視する。

先に「天→人間本性→道→仁徳→礼儀→法律→利益→武力→権謀」という本末の連鎖を挙げた。このうち左に行くほど根本に近く右に行く穂と末端に近い。よって理想主義者ほど左側を重視し、現実主義者ほど右側を重視する。

そもそも「根本」と「末端」というのも儒教や私自身が理想主義に寄っているので、左側を「根本」と呼ぶ。現実主義者は経済力や軍事力を「根本」と言うため右側を「根本」と言うはずである。この記事では左側を「根本」とする。

孔子は「天→人間本性→道→仁徳」を重視。もちろん礼もそれに続いて重視する。法、利益、武力は否定はしないがそこまで重視しない。孟子もこれに近いか。孔明は「仁徳→礼儀→法律→利益→武力」を重視。荀子は礼儀を重視する。韓非子は法。董卓は利益と武力のみ。後述する賈クは権謀が得意。

理想主義に過ぎて現実を無視する人は現実世界で成功しない。孟子がその典型である。逆に現実主義に過ぎて武力や利益のみを求める人は一時的に成功しても長続きしない。董卓がその典型である。

儒教などの普遍的思想は天の意思であるという意見がある。私は部分的に同意する。しかし思想は普遍的とはいえそれは思想家の思想でもある。人間の意見でもある。しかし歴史の結果は歴史の意思であり天の意思と言ってもいいかもしれない。その点からすると董卓は天の意思にそむく人間である。孟子は後世において大きな名声を得たため天の意思に部分的に則っていたといえるにしても現実世界で成功しなかったため天の意思と違う点もあったと結論すべきである。

では誰が天の意思に適うか。三国志で言えば曹操や孔明である。なぜか。それは彼らが理想と現実の中間を行ったからである。

『近思録』総論聖賢に次の言葉がある。

書下し文
諸葛武侯は儒者の気象有り。
現代語訳
諸葛孔明には儒者の風格がある。
さらに次の言葉がある。
書下し文
孔明は礼楽に近し。
現代語訳
孔明は礼楽を興す人物に近い。


礼楽を興すとは新しい道徳を興すという意味。孔明は儒教の本質を体現していた人物として評価されている。儒教的理想を持っていたのだ。

『礼記』楽記篇に次の言葉がある。

書下し文
礼楽の情を知る者は能く作る。礼楽の文を識る者は能く述ぶ。作る者をこれ聖と言い述ぶる者をこれ明と言う。
現代語訳
礼楽の本質を知る者は新しい礼楽を興すことができる。先賢の興した礼楽を理解する者はそれを受け継ぐことができる。 礼楽を興す人物を聖と言い、礼楽を受け継ぐ人を明と言う。


先の「孔明は礼楽に近し」というのは最大級の賛辞である。礼楽を興すのは聖人である。孔明はそれに近いというのだ。実際には孔明は「聖」=「聖人」ではなく「述べる者」であり「明」であると言える。

彼は理想を持っていただけでは無い。その理想を実現しえた。彼の治世は堯舜の治のようである。彼が現実世界でその理想を行えたのは彼が現実を知っていたからである。理想と現実の中間を行える人物であった。

曹操は小説である三国志演義の影響でゴリゴリの現実主義者と思われがちだが、史実ではそうではなかった。若い頃洛陽北部尉という警察部長に任命されたとき、法律を重視して法律違反する者は例え高位高官の人物でも全く容赦しなかった。当時の中国は法律が守られずたるんだ社会だった。曹操は自らの命の危険を顧みずにそれを正そうとしたのだ。彼は若い頃、その後の抱負を語った記録が残っており「私は天下の智者勇者にまかせ道義をもって彼らを制御するつもりだ。」と述べている。やはり道義を重視していたというのが分かる。しかし彼は現実無視の理想主義者ではなく非常に現実を重視していたのはあらためて言うまでもないだろう。

理想主義には良い意味での理想主義と悪い意味での理想主義があり、現実主義には良い意味での現実主義と悪い意味での現実主義がある。良い意味での理想主義は世の中をよくするための理想を持つ考え方である。悪い意味での理想主義は理想の実現の際に現実を無視する。良い意味での現実主義は現実をよく理解して現実を動かす。悪い意味での現実主義は世の中をよくするための理想を持たない考えである。曹操や孔明は良い意味での理想主義と良い意味での現実主義を備えていたと言って良い。

儒教は根本を重視し末端を軽視する。私は儒教の普遍性を信じる者だが、儒教にとらわれる気はないし、儒教のすべてに賛成というわけでもない。私は末端も大切だと思う。しかし末端を備えるためには根本を備えていないと意味がない。根本を備えた人が末端も備えると末端は大きな力を発揮する。しかし末端のみを求めると「末が勝つ」状況になり、害を及ぼす。

董卓のような根本を備えずに末端だけ備えた人物は尊敬できない。社会に役立つアイデア・技術という根本を備えずに利益と言う末端に走る企業も尊敬できない。劉備のように根本たる人徳を持っている人で末端たる大業を成さない人は尊敬できる。しかしもったいないと思う。曹操や孔明のように根本を持ち末端をも備えた人は尊敬でき、さらに世の中を良くできる。

E.H.カーの『危機の二十年』という政治学の古典がある。次の言葉がある。

理想主義者の典型的な欠陥は無垢なことであり、現実主義者のそれは不毛なことである。


悪い意味での理想主義と悪い意味での現実主義について的確に述べている。次の言葉もある。

未成熟な思考はすぐれて目的的であり理想主義的である。とはいえ目的をまったく拒む思考は老人の思考である。

理想主義は現実を知らない無垢な青年の思考であり、現実主義は目的や夢を持たない老人の思考だと述べている。続いてこれらに対比される成熟した思考について次のように述べる。

成熟した思考は目的と観察分析をあわせもつ。

目的は理想であり観察分析は現実である。成熟した思考は理想と現実の中間を行くのである。次の言葉が続く。

こうして理想主義と現実主義は政治学の両面を構成するのである。健全な政治思考および健全な政治生活は理想主義と現実主義がともに存するところにのみその姿を現すであろう。
曹操や孔明が成熟した思考の典型である。

成熟した思考は理想と現実の中間を行くと述べたが、もちろん単純に両極の中間と言う意味ではない。

もし単純に中間であれば「天→人間本性→道→仁徳→礼儀→法律→利益→武力→権謀」のうち「礼」が一番真ん中なので礼を重視する荀子が一番偉いということになる。もちろんそれはおかしい。荀子より孔子のほうが偉い。

E.H.カーが「成熟した思考は目的と観察分析をあわせもつ。」と言う通り、理想と現実の両方を重視する人が正しいと言うべき。

私のスタンスも述べておく。記事を書いてる本人のスタンスも知っておいたほうが良いかもしれないから。 私は「天→人間本性→道→仁徳→礼儀→法律→利益→武力→権謀」のうち一番右の「権謀」以外はすべて大切だと思っている。権謀は他人の罠に引っかからないために知っておく必要があるが積極的に用いるものではないと思っている。

さらに付け加えると私は若干理想主義のほうに寄っている。本と末、両方大切だがどちらかとれと言われれば本を取ると言うのが私のスタンス。E.H.カーの言葉には共感するが、別に彼の思想に全部賛成というわけでもないしそれに捉われるつもりもない。個々人が自分の信念に基づいてどのスタンスを取るか決めるべきだ。

劉邦は儒者嫌いだったが『劉邦』という宮城谷氏の小説で、劉邦が儒者を嫌う理由として、儒者は思想に捉われる点を挙げている。思想は読むべきだが捉われてはいけない。

『ヨギーニ』というヨガの雑誌の2019年3月号に次の言葉が書いてあった。この手の雑誌はプロのライターが書いていて、文章がうまいと思う。見習いたい。

師や先からの回答を鵜呑みにすると「気づきの成長」を止めてしまいます。先生の言葉はガイドであり、自分で気づきを得るための光です。自分の力で向かっていかなければいけないのです。そうすることで、主体的にものごとが見られるようになり、、心の声に耳を傾け、自分にとっての正しい選択ができるようになります。いい悪いというのはすべて個人論に過ぎません。「この食べ物が血圧にいい」と言われても、みんな同じ効果を得られるわけではありません。それぞれが違う肉体と言う器と、違う真我というモーターを持っているのです。


E.H.カーの言葉も儒教の言葉も鵜呑みにするとかえって害を生む。思想にとらわれてしまう。

話がそれた。元に戻る。古代ギリシャの格言に次の言葉がある。

賢者にあっては金は良き召使であり、愚者にとっては冷酷な主人である。
賢者は金を本当の意味で自分を高めるため、世の中を良くするために使う。金は手段であるから「召使」であり、良いことに使うから「良き」召使である。愚者においては金は目的であるから「主人」であり、そういう人は寒々とした人生を送るので「冷酷な」主人である。

金は末端ではあるが根本を備えた賢者が使うと自分を本当の意味で高めたり社会を良くする会社を起こしたりできる。根本を備えない愚者が金を得ても世の中は良くならず当人にとっても必ずしもプラスにならない。要は根本を備えた者が末端も備えると末端は非常に大きなプラスの力を発揮する。末端を軽視してはいけない理由がここにある。根本を備えない者が末端を充実させるとそれはすでに述べた「末が勝つ」状況になる。金を主人とする人たちはこれにあてはまる。

『荀子』修身篇に次の言葉がある。

書下し文
君子は物を役し、小人は物に役せらる。
現代語訳
君子は外物を使うが、小人は外物に使われる。


古代ギリシャの格言の賢者は金を使い、愚者は金に使われる。 賢者は根本を持っている。根本を持っている人が末端たる金を得ると良き召使として金を使う。 愚者は根本を持たない。根本を持たない人が末端たる金を得ても金を主人としてしまう。

『論語』公冶長篇に次の言葉がある。

書下し文
子曰く、吾未だ剛者を見ず。或る人答えて曰く申トウと。子曰くトウは欲あり。焉んぞ剛たるを得ん。
現代語訳
孔子が言われた。「私は剛の者を見たことがない。」或る人が答えて言った。「申トウがいます。」孔子が言われた。「申トウには欲がある。剛の者とは言えない。」


申トウとはどのような人か分かってない。恐らく魏延のような威勢のよい人だったのだろう。ヤクザみたいな人。孔子は申トウには欲があるので剛の者とは言えないと答えた。

これに関して『論語集注』に次の言葉がある。

程子が言われた。「多欲であれば剛ではない。剛であれば多欲に屈しない。」謝氏が言った。「剛と多欲は正反対のものである。物の誘惑に勝つのを剛と言う。それゆえ常に万物の上に位置する。物に蔽われてしまうのを多欲と言う。それゆえ常に万物の下に屈する。」


これも古代ギリシャの格言と同じことを言っている。金の誘惑に勝つ人は金より上に位置する。そして金を手段として有効に使う。金は召使。剛の者である。多欲の人は金の誘惑に負ける。金より下に位置する。金に使われる。金は主人。金のために自分の志を捨ててしまうかもしれない。剛の者とは言えない。

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