大学をやめて大手ゲーム会社に内定をもらった人間のそれまでの人生

ゲーム業界のデザイナーとなるまでの話

この話はゲーム業界に少し興味のある人やデザイナーに興味のある人、頑張れない人、暇な人くらいが対象者のようでそうでもないような(?)
ただの凡人の学生生活を終えるまでの話。正直いつか忘れそうだったから、日記みたいな気分でここに書き殴るただの自己満足文章 まじできっしょい自分語り
すでに業界で活躍しているベテランさんなどは引き返しを推奨

小学生~大学までの私と勉強との向き合い

私は物心ついた時にはゲームをしていた。小学生のころからプレイしてきたゲームはDSの初期やPS1、PS2あたりから。印象的だったゲームは、ファイナルファンタジー12。オープニングのムービーがすさまじく記憶に残っていて、気がついたら早朝から遊ぶほどにはまっていった。

小さい頃からお絵かきは好きで、何冊もの「じゆうちょう」は使い果たしたし、イラスト漫画クラブ的なものにも小学生時代は入っていた。小学生のアルバムには、「ゲームデザイナー」になりたいと書いてあった。自分はそのことを完全に忘れていて、いざ内定を貰って実家に帰省してそれを見てびっくりしていた。中学校では、運動会の巨大な旗をチームで描いたことがある。美術の先生は私のことをよく褒めてくださっていたそうで、今ではいい思い出だ。ほかの面では、中学校から高校までの学生生活自体は三年後には関わる人が半分以下に減っていくという性格の悪さをしていたのでコミュニケーションは得意なほうではない。まじであの頃絡んでくれてた人まじでごめんありがとう。当時のSNSを自分で見返したときは殴りたくなったくらいだ。今でもlineとかは苦手だし自分の課題である。中学校では興味のある部活がなかったから兄の影響でソフトテニス部に所属していた。中学では軽くいじめられ、死にたいと思った時期は何度かあった。そのせいで頭の悪い体育会系の人間は嫌悪するようになったし、嫌な人間とはとことん関わらないほうがいいということを学んだ。

私のこれまでの勉学関係について書いていこうと思う
父が電気関係の仕事に勤めていたため、私も小さい頃から工業系(広義には理系というべきか)のものに関しては興味関心があるほうだった。
だからなんとなくで生きていた私は高校受験は高専を選択した。
塾には通わず、進研ゼミをやっていた。小学生から中学生まで毎年取っていたが2割もやってなかったと思う。親には本当に申し訳ない。
当時は"勉強すること"について何も理解していなかったため、まともな受験勉強もせずにいた。故に受験には失敗して、滑り止めで高専に編入できるカリキュラムの高校に進学した。
このころはなんとなくプログラミングとはなにかも知らず、それっぽい情報系電気系に進んでいれば興味関心のあるものに携われるだろうと思っていた。実際はそれぞれが広大な分野だとは知らずに、やはり正しい進路選択というのはいささか難しいものがある。

そこの高校は所謂自称進学校で、朝課外夕課外があり、登下校は山を越え早朝から深夜までブラックな日々を過ごした。
教師からは毎日𠮟責され、無能だといわれ続けた私たちの代ではあったが、それなりにこなしてみせた。当時私は一番成績が良かったが、今では私はなんてミジンコみたいなもので、同期は高専から某有名大学の研究室に行き、そのまま大手へと就職したそうだ。すごい。
さて、その高校時代だが、検定試験の勉強をやるにつれ”勉強すること”についてある程度の理解を示せるようになった。検定試験では合格率1,2割の試験で満点で合格したり、表彰されたりした。マイナーな試験なので正直使えたものではない。その検定自体には何の効力もなかったが、ここで目に見える結果が出たことが大きな自信につながったし、その後の自分の人生に大きな影響を与えていると思う。私はその勢いで高専編入の合格を取得した。正直問題は暗記ものばかりであったため、内容を理解するというよりかは大学1,2年レベルの電磁気学といった内容をただ黙々と数式を並べるようになっただけではある。
その後教師の勧めもあり(というよりかは学校としての実績が欲しかったのだろう)国立大学の工学部の受験を勧められた。

高専の編入が目指せる学科だったため、いわゆる工業系高校扱い。大学の推薦枠には、そういった工業系高校専門の推薦枠があるため狙い撃ちができるのだ。専門知識を持った優秀な若者が欲しいのだろう。
地方の国大だったので、倍率も1~2倍程度で済むので合格は簡単だった。内申点は普通にこなしていれば問題なく、質疑応答では高校時代にいやほどやった専門知識や、強制で参加させられたボランティア活動の話を使うだけ。教師から徹底的に調べろと言われ、興味もない研究室を調べつくし自分をだますように嘘をたくさん語った。実際当時の自分は自分で騙せていたのだろう。本心ではやりたいなんて思っていなかったし、それっぽいから選んでいただけなのだ。
12月にはもう合格をもらうことができたため、急に学内で就活や受験勉強をしている人ら数百名の前で演説してこいと集会でいわれたことがある。
当日にもかかわらず私はなんとかやり遂げた。語ったのはそれこそ、自分に自信がつくように何か部活でも趣味でも何かを全力でやること。結果は出さずとも成果を求めることを喋った。我ながらいいことを言った気がするし、今でも同じことを投げかけると思う。スパルタな高校だったが、考え方の基礎が身についたいい高校生生活が過ごせたと思う。男ばっかりで青春なんてほとんどなかったけど….。

センター試験で一般で入ってきた人たちは、普通に私より頭がいい。
私の英語力は皆無だし、センター試験も国語などは受けていない。そもそもカリキュラムにないからだ。国語の偏差値は40もなかったかもしれない。英語なんかも普通に駄目で、偏差値50前後だった。目も当てられないし、これを読んで笑う人は多いだろう….。この文章からも滲み出ているだろうしね....。

と、筆者の頭の悪さも理解してもらったところで話を戻そう。
だが、彼らの多くもまた同じで、大学を選ぶ理由は”なんとなく”な理由ばかりなのだ。この現状はとても悲しいと思う。すべての受験生がやりたいこと行きたい研究室で大学を選べる日が来ることを願いたい。
大学生活では、初めての一人暮らしということもあったし、高校時代が辛すぎたためとことん遊びたいと思っていた。しかしどのサークルも肌に合わず、数か月所属した所は少し顔出した程度で他は新歓に行っただけだった。
特にお世話になったサイクリング部の人たちはとてもあたたかかった。
ただここで得られた友人たちは、かけがえのない人たちだったし、いろんな出会いがあった。大学となると、一定の頭脳を持った人々がいるため、環境が良い。話す内容にも知性を感じるし、良い友人が多かった。
私は大学では特にその環境の大切さを学んだ。
講義に関しては、共通教育科目が1、2回生の間はあるので正直専門的な内容が高校時代より減ったといっても過言ではない。そう、退屈なのである。
全くもって将来役に立たないであろう内容もあったし、それらを学んでいて疑問を浮かばずにはいられなかった自分もいた。ただ、プレゼンやグループワークなどもありこなしてみれば100人ほどの学科で成績は2位だった。何故か学科長から表彰もされ、鼻が高くなった(アホ)。これも正直高校時代の頑張りで下地ができたいたからやれたのだと思っている。
しかし、私の心の底には ”このままでいいのか” ”楽しくない” ”つまらない”という思いがぬぐい切れていなかった。

大学をやめるきっかけ

大学生活の浮きも落ち着いて、日々の辛い実験とレポートの再提出、1つでも単位を落とせば留年といった過酷な理系大学生のそれの日々を過ごした(理系の人は分かってくれると思う)。簡単な試験だけ行い早めに長期休暇に入って遊んでいる文系の人たちを横目に見ながら。

大学で学ぶ内容は、将来どこでどんな仕事でどういうときに役立つのか全く見えなかった。電気回路を学んでいても、どこで使うんこれ?という疑問がずっと思い浮かびながらやっていた。そういう仕事を調べるほど興味を持っていたわけではない。なんとなくで会社を決めてなんとなくで就職なんてしたくなかった。ただその学科では大手会社に行ける、将来は給料高いよ!とか明確ではないぼんやりとした話だけだった。そういったことも背景にあったのかもしれない、私は大学を辞めたいと思う考えを持つようになったのは。3年でやめるとかいうバカである。
実際に大学をやめる強いきっかけとなったのは、明確にやりたいことをやりたいという思いがあったからだ。

今でも覚えている。
休日にふと見ていたyoutube、初音ミクがライブをしている映像だ。
先述の通り、私は小さいころからテクニカルなものに関しては興味関心があった。
最新技術や、最新のデバイスには心躍るものがあった。
ARや、VRに関しては可能性しか感じていないし、3D技術というものはそんな私にとってドストライクな存在だったのだ。
それを認識させたのが、その初音ミクのライブ映像だったのだ。
3Dとはいったい何なのか?どういった技術があれを作っているんだ?
クリエイターの仕事は楽しそうだし、学んだ技術が直接仕事に活かせる。
そして発達する技術、ハードとともに成長していく3DCGの世界。
3DCGデザイナーの採用の多くは学歴など関係なく、実力主義。
学びたい、そしてそれを仕事にしたい。
そう思ってから私に迷いはなかった。

親にはかなり無理を言ったし、迷惑をかけた。
あまりにも大きすぎる器を持つ両親は、そんな私を専門学校へと行くことを許してくれた。流石に東京以外で、とのことで大阪の専門学校を選んだ。
お金があまりないのにも関わらず、本当に親には頭が上がらない。そのまま専門学校の入試を受け、もちろん合格。試験期間後半で受けたので受験者はその日は私だけだったと思う。どうやら大学をやめてくる人は多いそうだ。
退学届の手続きでは、担当の教授は私を止めようとはしてくれたが、説明したら納得してやりたいことをやりなさいと言ってくださった。(他の担当ではないお堅い教授らにはとても言えなかったが)そうして私は大学を三回生でやめて、崖っぷちの専門学校生活が始まるのであった。

経験者に絶望させられる専門学校生活の始まり

いざ、専門学校生活が始まると、入試のこともありピンからキリまでの学生がいた。上を見ると経験者ばかり。
鏡を見ればただ年齢を重ねただけの大学中退無能おっさん学生の出来上がりである。
圧倒的劣等感、私はただやるしかなかった。一人のデザイナーになるために。


専門学校は、即戦力を鍛える環境や同じ志を持った人間が集まっている。まさにこの業界にうってつけの場所だ。ほかの業界に行くためなら少し話は変わってくるだろう。とはいえ、結局は自分でやれる人間でなければ、どこへ行ったって同じである。
私は関わる人間を絞り、ゲームの誘いは断り、ひたすらに小さいことからやっていった。友達はまた減った。わからないことは経験者から吸収したり、教官に聞いたりしてこれまでの勉強のノウハウを活かしながら物事を吸収していった。
初期のころ印象的だったことは、デザインとはパクリパクられ、そしてセンスは磨いていくものということだ。
自分のこれまでの全く美術に触れてこなかった私の固定概念は一度捨て去り、リファレンス集めを行いながら作品制作をしていくようになった。

一年時の進級制作では、コンテストが学内で行われる。
金賞をとっている先輩の姿を見ていたからか、私も色付きの賞が欲しくて毎日何時間も、年末年始もPCと向き合った。期限よりも早く一つの作品が出来上がりつつあったが、何を思ってか、すべて1から作り直した。ゲシュタルト崩壊だろうか。正直今考えると作り直す前のほうがクオリティは高かったんだけど…。
そうして最後まで素人なりにやりきった作品は、学内で金賞だった。

今でも覚えている。
賞が発表される場で、何百人も集まった場所で、経験者の人たちや、できる人たちはどんどん名前が呼ばれていく。最後まで私は名前が呼ばれなかった。司会の人は当時こう言っていた”誰にでもチャンスはあります、頑張ったあなたが金賞になる可能性があります”。ほかにも優秀な人が残っていたから正直期待はしていなかった。だけど金をもらえた。

しかし複数校でのコンテストでは、その作品は色付きですらなかった。
世間で言えば凡な作品だった。でも私は自信をそこで持てた。たとえ少ない集まりの中でも、一回きりでも、結果が出てくれた。
その時さらに私は井の中の蛙ということを知れたし、大きな転機だったと思う。他校の学生にももっと化け物といえる人たちが大量にいたのだ。
私はその人たちと戦っていかなければならない。就活は加えて未知なる美大の人たちと闘わなければならない。
やる気が出た、モチベはMAXである。

専門学校の強みを活かして勝負をする

美大生は圧倒的な画力や培ったセンスを持ち合わせている。
未知なる強敵と戦うこととなる専門学生の私たちは、私たちなりに学校と会社との連携制度や、他のプログラミングをしている学科などと協力してゲーム制作をする機会があるためそれらで差をつけるしかない。私はそれらをフルに活用しながら力をつけていった。ゲーム制作をすることによって、考え方などが身につき、またその達成感ややりがいも知ることができて、よりエンターテインメントと3DCG技術との可能性を改めて身に感じていた。

そして早め早めの就職活動を行った。
これが肝心だった。早期からポートフォリオ制作に取り掛かり、夏休みなど私にはあってないようなものだった。かなり早期からポートフォリオを作れと言ってくれる教授はなかなかいないだろう。
会社説明会やインターンシップには積極的に参加しようとずっと思っていたため、興味のある会社は調べあげ、それらのイベントに参加していった。インターンシップに参加すると、自分がどこまで通用するのかはっきりしてくる。学内にとどまっていてはもっと無能のままだっただろう。
そういった興味を持ってやる制作や活動を行っていくうちに、業界のことは喋れるようになり、面接練習などしなくても自分の言葉で話せるようになっていた。
そう、大学入試の時みたいに嘘を言う必要はないのだ。

実際、私が身につけた職業のスキルは業界的に未発達で、基本的に独学だった。学校では広く浅くなカリキュラムだったため、下地となってくれた。
月単位で身に着けるスキル、ソフト、作る作品、見終わるチュートリアルなどを紙に殴り書きをして、壁に貼り付けてそれを遂行した。自分でも驚くくらいゾーンに入ってやり切れたと思う。行きたい会社や作りたい作品の作風などを考えながら過ごす日々はかなり充実していた。当時は同じ道を志す人たちと比べたり比べられたり、毎日同じ年齢の人たちが結婚や就職した話を聞いて劣等感を感じたり悔しくてたまらない日々だった。(今もそうだけど)これが背水の陣、火事場の馬鹿力とでもいうのか、内定までの数か月はそれもあってか全力そのものだった。

挑戦を続けていると運の能力値があがるというか、チャンスは転がってくる。参加したインターンシップやイベントなどを通じて、選考やあるいはその先までのお話をいただけることがある。私は就活を始めていた当時、早い時期だったのにもかかわらず6,7社ほどから声を掛けられていた。
先輩方の中には、もっと早くから会社から目を付けられていたという人や早期内定者がいるといった話を多く聞いていたため、そういった早期から就活に意識を向けて行動をするレベルにないと満足な就活はできないと思っていたし、その通りだった。

そこでは私はあのタイトルに関わりたいという強い思いや、社風、考え方などを吟味して1つの会社を選び、面接もしてもらい、そこで働かせて貰えることとなった。
当時デザイナーとしては学内最速の内定だったと思う。嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
その後も私は学生生活でやり残したことは全部やろうとし、それらを残りの期間でやりきった。日本ゲーム大賞アマチュア部門などで結果を残したり、趣味のほうでもオンラインゲームでランキングにのるほどやってみたり(しょうもないが)、普段やらないことを始めてみたり。
思い返せば一瞬の学生生活だったが、本当に悔いはないと思う。
いや、悔いがあるとすれば任〇堂にエントリーしなかったことかもしれない。(行く気は当時はなかったが記念受験しておきたかった)

もしこれを最後まで読んでくれた学生の方、ゲーム業界に行きたい方がいるのなら、貴方の思いの強さを今一度確認してほしい。
気が付いたらどんなものをいつも作っているか、どんな環境で働きたいか、どんなことにワクワクするのか、自分をまず分析して知ってほしい
そうしたら、どんな会社にいきたいのか、デザイナーなら、モバイルなのか、コンシューマなのか、2Dなのか、3Dなのか….そもそもこの業界に行きたくないかもしれない….と見えてくるはず。
私はなんとなくで大学受験をしたり迷ったり何かを始めたりするなら徹底的に自己分析からするべきだと思う。後悔してからでは遅すぎる。
でもこれはあんまり強く言えない….学生なら正直わからんことばかりだし。
だから自分を知るきっかけとなるような色んな事に触れるべきだと思う。
それを趣味としたり仕事とするかは各々自由だし、何かの生きる希望のきっかけとなるかもしれない。
ゲーム業界映像業界は少し特殊なパターンだ。多くの会社が実力重視なため、他の職業をやめて一年間必死に独学して入社する といったパターンはかなり多い。あなたが思うより、敷かれたレールの分岐は多いかもしれないし、外れることも多少は悪くないかもしれない。

自分が見えている世界がすべてだと思わないこと。視野を広げることが、きっと豊かな未来につながっていくと思う。私は正直運が良かっただけだ。大学時代も視野を広げようとはしていたが、正直それもまだまだだった。本当の自分が何をしたいかも知らず、世の中にどんなものが溢れているかなんて知っていたつもりで何も知れていなかった。当然今の自分も知らないことばかりだし、ベテランの人間からしたら青二才が!となるかもしれない。何もこの文章に責任は持てないし、ただ綴っただけだけど、少しでも何か伝わったら嬉しいなあ。

文章は酔いながら訂正もせず打ち込んだだけなので多少の誤字脱字は突っ込まないでね。

ゲーム業界に入るためのアドバイスやコメントが欲しい人がいるのでしたら、いつか気が向いたときに記事を書くかもしれません。でもどうせたどり着く答えは、ただひたすらに作れ とだけ….


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