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田舎より都会の方が監視社会

田舎は監視社会だ、なんてよく聞きますね。実際どうなんでしょうか、僕には分かりません。なぜなら、僕は田舎よりも都会のほうが監視社会だと思っているからです。

田舎は都会に比べ、コミュニティの規模が小さいです。それに数も少ない。なので、いつどこで誰が何をしていたか、という情報が瞬く間にコミュニティ内で共有される。理由としては、単に「狭い社会だから行動がすぐにバレる」というのもありますが、同時に「少人数である分、他者への関心がより強い」という要因もあるのです。都会に住んでみるとわかりますが、駅からは滝のように人が溢れ出してくるし、街は滝壺のようにけたたましい。そんな環境で暮らしていれば、1人1人の人間にさほど関心など湧かない。もちろん道などを尋ねられれば応えるが、必要以上の言葉は発さない。良くも悪くも、一定の距離を保ったドライな関係だ。ところが、田舎というのは人数が少ないものですから、あの人がどうしたこの人がどうした、というご近所ゴシップが絶えない。そうした人間関係をわずらわしく感じるのも無理ありません。

僕はいま田舎に住んでいます。地元ですが、人間関係はとても狭い。幼馴染が2〜3人いるかな、という程度です。くわえて、会社が東京にあるため仕事もリモートワークです。つまり、田舎に住んでいながらプライベートでも仕事でも田舎での人間関係がほぼない。そんなわけで、僕は田舎の厄介なコミュニティに所属せずに済んでいるのです。だから「誰かに監視されている」なんて思うこともない。僕はいま髪を水色に染めています。田舎でこんな髪色をしていると、たちまち村八分になってしまいかねません。三十路にもなって髪を染める傾き者は「魔王の使い」のレッテルを貼られること必至。おばすて山に連行されてしまう(世界観がメチャクチャ)。まあおそらくとても目立ちます。なので、僕が他の誰かをいちいち認識することはなくとも、周りから一方的に「またあの青い頭が100均でうまい棒を10本買ってる」と囁かれているかもしれません。別にいいんですけど。僕個人としては、周りから監視されているという実感はまったくありません。むしろ東京に住んでいた頃の方がよほど感じていました。確かに、東京では自分のことを知っている人間はごくわずかです。しかし、街のなかでは何をするにしても「常に誰かの目がある」という意識があります。悪事をはたらこうとしているわけでなくとも、常に誰かに見られているというのはあまり気分のいいものではない。被害妄想かもしれないので、自意識過剰な人には向いていない。

SFアニメ「PSYCHO-PASS」で、サイボーグ化した泉宮寺豊久というキャラクターが登場します。彼は「人体のサイボーグ化には抵抗がある」という世論に対し「程度の問題。あなた方は携帯情報端末など多くのデータを一気に失ったらどうなりますか?仕事もできませんね。そこまで自分の生活を電子的なものに委託しているのは、もはやサイボーグなのでは?」みたいなことを言います。とても良いシーンなのでぜひ観てください。

さて、僕たちはディストピアと言われると「徹底管理社会」みたいなものを想起します。人類はみな体内に埋められたチップで情報を管理され、街中いたるところに監視カメラが設置されている。んー、今ってまさにそんな状態じゃないですか?若い世代の過半数が「スマホを丸1日手放すことはできない」と答えている調査結果があります。つまり、スマホを通じて自身の行動データを大量に提供している。何時間このアプリを開いて、こういうジャンルの動画を視聴して、このカテゴリに興味があって・・・など。そして、都会にはたくさんの人がいて、皆スマホを持っている。いつでもカメラを起動して写真、映像を撮影し、インターネットにアップロードできる。互いが互いを監視するパノプティコン状態だ。無数の監視カメラが設置されているよりも、よっぽど監視社会だと思います。なんだか少々陰謀論くさくもなった気がしますが、まあ僕の妄想ということで。田舎と都会、どちらかをディスったり貶めようという気はありません。僕はどちらも好きです。ただ、今は田舎の方が居心地が良い気がしています。

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