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労働で失われる自分

休みの日数を増やすなどしてプライベートな時間を多く確保するようになった結果、わりと心に余裕が生まれてきた。すると、いつも以上にアニメを観ようゲームをしようという気力が湧いてくる。そして、現実のことなど忘れて心の底から作品を楽しむこともできる。そうなると、もっとアニメを観たい、ゲームの続きが気になる、と更なる消費欲がとめどなく溢れてくる。つまるところ無職に戻りたいんだろう。世間の目や将来への不安など無視すれば(これが最も難しいのだが)、無職は最強だ。翌日の起床時刻、仕事や人間関係をうまくやれるかなあという心配や焦り、そうした日々のストレスから解き放たれる。自然に瞼が閉じるまで、やりたいことに好きなだけ没頭していられる。

普段労働に従事していると、無職だった頃のあのキラキラした日々をつい忘れてしまう。しかし、たまたま休日が続いて仕事から離れる時間が長くなると、労働キャンセル界隈の民が手招きをしているのが見える。俺も・・・そっちへ行っていいか・・・?気の緩んだ心に生じる綻び、一度身を委ねてしまえば後戻りはできない。

この3連休、浴びるほど何かに没頭していたわけではないですが、仕事への緊張感が無い状態で趣味の時間を過ごせたのは本当によかった。やっぱりアニメって楽しいな、もっとゲームをしたいな、そんな純粋な気持ちを取り戻せた。社会、もとい企業というのは、個人に職種や役職を与えて「今日からお前は○○課の××職だ!」と命ずるわけですが、湯婆婆が名前を奪うのとよく似ている。管理するための仮の名を付して相手を支配。当人は次第に昔の記憶、かつての自分を失っていく…。もちろん会社に雇ってもらえるというのは大変ありがたいことなのですが、そこに溶け込みすぎて本来の自分を見失っては意味がない。1番楽しかった時期はいつだ。今が1番楽しいならそれもいいかもしれない。けれどもし、1番楽しかった「あの頃」があるのなら、忘れてしまわぬうちに取り戻したほうがいいのかも。しれない。

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