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本気で「死にたい」と思うまで

「死にたい」って言葉はけっこうカジュアルに使われているし、そうあるべきだと僕は思う。嫌なことがあった時や病んだ時、サラッと「死にたい」という言葉が出てくるのは何ら不思議ではない。僕の経験上、そうやって軽い気持ちで口ずさむ「死にたい」に文字通りの意味はない。積極的に絶命を望んでいるというよりかは、生きていたくない、くらいでしょう。かといって「生きていたくない」という否定文では己の欲求を的確に表現できているとは言えず、「死にたい」というフレーズを暫定的に採用しているのだ。そう口にすることで、自分の中に溜まっている負の感情をわずかばかりだが和らげることができる。本当は「生きていたくない」と「死にたい」の間くらいの感情なんだけどね。文章でも口頭でも、自分の気持ちを言葉にするというのはメンタルケアとして有効だし、その際はなるべく直接的な表現を用いたほうがよい。

僕自身、これまで幾度となく文字でも口頭でも「死にたい」と言い続けてきた。SNSでは「はいはいwかまってちゃん乙w」なんて煽られて「ふざけんなおい!!!!本気で死ぬぞおい死んでやるからな!!!」とモニターの前で顔を真っ赤にしたりしてました。インターネットボーイ&ガールのあるある体験記ですね。しかし、当時の自分としては本気だった。本気で死にたいはずだったんだ。けれど、口をついて出た「死にたい」という言葉と実際の「死」の間には、案外距離があるんだよね。まず、「死にたい」と言って自殺の方法について調べる人がどれほどいるだろうか。大半の人は言葉にするだけである程度スッキリするので、そこまでいかない。仮に調べる段階までいったとして、首吊りの方法なんかが詳細に書かれたウェブページを読んでみると分かる。具体的な自殺方法を目の当たりにすることで、ようやっと現実味がわくんだ。説明を読んでいると、嫌でも自分が”ソレ”をしているところを想像してしまう。するとどうなるか。鼓動が激しくなる。バクバクという心臓の音が速く、そして大きくなるのが分かる。ここがもっとも大きな壁。本能的に死を拒絶するので、この恐怖心を振り払って行動に移すのは至難の業でしょう。常人の神経ではやってられない。狂気が必要だ。

去年、約9年間付き合っていた彼女に振られた。一生一緒にいるつもりだったし、この世でもっとも愛していた。思えば、たいそう依存していたのでしょう。この失恋で僕は本当の希死念慮と相対することとなった。それまでは自殺方法を調べるだけで怖くなっていた僕の脳みそは正気を失った。ドアノブに括り付けたロープを手にしても、死に対してまったく恐怖心がなかった。むしろこの先生きていくことのほうがよほど恐怖であった。「あ、死ねるわ、これ」と確信すると同時に、安心感すらあった。

それでも結局僕が死なずにこうしてのうのうと生きているのは、彼女と完全に縁が切れたわけではないからだ。今でも毎日LINEをしている。僕の生きる希望なのだ。

そういう経験があるものだから、ちょっと嫌なことがあった時に出る「死にたい」は、言葉で言うほどに深刻なものではないと思っています。ただ、本当に死にたい時の「死にたい」との区別は難しいので、そこはケースバイケースで各々判断するしかありませんが。少なくとも、先述したように煽ったり「死ぬなんて言うな!周りが悲しむだろ!」とこちら側の都合を押し付けるよりかは「うんうん、わかるよ、死にたいよねー」と共感を示してあげるほうがよい気はします。

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