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私たちももう舞台の上 -降りるべき塔としてのスタァライト-

ぷらたもん
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 本論文では、TVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、TVアニメ版)と『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、劇場版)におけるメタ性として、劇中劇と劇の一致と第四の壁を破る行為について論じ、これらのメタ的演出が持つ意味をジャック・ランシエールの論考『解放された観客』を用いて考察する。

 1章ではTV アニメ版におけるメタ性として劇中劇と劇の一致を、「再生産」というキーワードから考察する。2章では劇場版におけるメタ性の1つとして劇中劇と劇の一致の自覚を中心に論じる。3章では『解放された観客』の内容を概観する。4章では劇場版におけるメタ性である第四の壁を破る行為を『解放された観客』における議論に沿って考察する。5章では、第四の壁を破りながらも依然として存在する隔たりが作品にどのような意味をもたらしているのかを「解放」というキーワードから考察していく。

1.TVアニメ版における劇中劇と劇の一致

 本章では「再生産」というキーワードをもとにTVアニメ版におけるメタ性を考察していく。

 愛城華恋の「アタシ再生産」とは決して愛城華恋だけを再生産するものではない。では、TVアニメ版では何を再生産しているのだろうか。TVアニメ版序盤では朝も1人で起きることがままならず、主役への情熱も失いかけていた愛城華恋が「アタシ再生産」のセリフと共にレヴューへ飛び入り参加した時点で愛城華恋の再生産は達成されているように思われる。このレヴューへの飛び入り参加は最終的に神楽ひかりの運命の舞台を打ち破り、彼女たちの運命を再生産することへとつながっていく。しかし愛城華恋が「アタシ再生産」をすることが、なぜ運命の再生産につながるのだろうか。その疑問の鍵を握るのは本作の劇中劇である『戯曲 スタァライト』(以下、戯曲スタァライト)と劇そのものである『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の関係性であると思われる。

 TVアニメ版では当初、舞台少女たちが切磋琢磨しあい、劇中劇としての戯曲スタァライトを演じようとする物語であるかのように話が進行していく。しかし実態はそうではない。第11話において失踪した神楽ひかりの居場所を愛城華恋は戯曲スタァライトの原作本から発見する。ここにおいて、戯曲スタァライトとTVアニメ版のストーリーがリンクしていることが暗に示される。この劇中劇と劇の同化は物語が進むにつれてだんだんと明らかになるものであり、第11話において完全に同化する。例えば第3話アバンに登場する、天堂真矢と西條クロディーヌが戯曲スタァライトを演じる(おそらく)第99回聖翔祭のシーンでは、劇中の彼女らが劇中劇を演じているということしかわからない。しかし物語の根幹が明らかとなった後の第8話アバンにおける戯曲スタァライトを演じるシーンでは、愛城華恋と神楽ひかりが演じているというのは示唆的である。

 とはいえ第1話アバンでは「スタァライト、それは、星の光に導かれる女神たちの物語」というナレーションとともに愛城華恋がスタァライトを演じている場面があり、劇中劇と劇の一致が実は物語冒頭で既に提示されている。第11話に至るまで、登場人物たちの行動はほとんど戯曲スタァライトのシナリオに沿ったものであるのだ。したがって、星祭りの夜に星を手にすることができた者は願いを叶えられるという戯曲スタァライトのシステムと、オーディションでトップスタァになった者は永遠の主役になることができるという『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』のシステムは対応していることがわかる。

 基本的に戯曲スタァライトは悲劇として解釈される。そしてこの戯曲と登場人物たちの行く末は同一であるため、彼女たちは悲劇のシナリオを歩むことを余儀なくされる。神楽ひかりが作中において「2人の夢は叶わないのよ」と述べるのは、それゆえであろう。この悲劇のシステムは戯曲においても『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』においても、過去何回も繰り返されたものと見て間違いないと思われる。というのは、戯曲スタァライトでは冒頭に「これは遠い星の、ずっと昔の、遥か未来のお話」と言われていることから、今までもこれからも続いているストーリーであると考えられる。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』においては、大場ななが第99回聖翔祭を何度も繰り返している。大場ななはキリンの提示したシステムを利用して、トップスタァになり同じ日々を繰り返すことで他の舞台少女たちを苦痛から守ろうとしていた。そのような状況において、愛城華恋はキラめきを失っており、神楽ひかりとの約束によって駆り立てられていた情熱も同様に失ってしまっている。では、大場ななの再演を最初に打ち破ったのは誰か。それは神楽ひかりである。

 大場ななの知らない異分子として入り込んできた神楽ひかりは結果的にレヴューで大場ななを負かし大場ななの再演を止めさせる。しかし神楽ひかりがトップスタァになった舞台でも、結局悲劇のシステムからは抜け出せない。神楽ひかりは戯曲スタァライトのシナリオに則って、自身が塔に閉じ込められることで愛城華恋を再演から解放し救おうとしたからである(そして結果的に他の舞台少女たちも救われた)。大場ななも神楽ひかりも、自身がある特定の位置に自ら囚われる、留まることで他の舞台少女たちを救おうとしている点で、構造は共通している。またこのキリンのオーディションが悲劇をもたらすシステムであるという事実を理解しているのもこの両者のみである。

 この両者に対して愛城華恋は、戯曲スタァライトを再解釈し、悲劇のシステムを打ち破ろうとする。塔から落ちてもクレールを取り戻そうと立ち上がるフローラは居たはずであると考えた愛城華恋は、誰か1人が特定の位置に留まることを許さない。舞台少女たちを苦悩、失意から守ろうとした両者を愛城華恋は否定するのである。1度失敗したとて、悩んだとて、我々は何度でもやり直せる、くじけるたびに自身を再生産して立ち直れるのだと彼女は述べる。こうして愛城華恋は新たな戯曲スタァライトを提示し舞台を再生産することで彼女たちは2人の夢を叶えることができる。このようにして、愛城華恋はスタァライトそのものを再生産すると同時に自分たちの運命を再生産しているのである。

2.劇場版における劇中劇と劇の一致の自覚

 本章では劇場版とTVアニメ版におけるメタ性の違いについて考察する。この両者には2点の違いがある。

 1点目は、劇中劇と劇の一致をキャラクターたちが自覚している点にあると思われる。すなわち、キャラクターたちは自身が舞台の上に立っており、この舞台を演じきらなくてはならないことを自覚している。TVアニメ版のキャラクターたちは劇の筋である自身の日常と劇中劇である戯曲スタァライトの一致を認識しているようには描かれていなかった。他方、劇場版におけるキャラクターたちは劇となる自分たちの進路決定の過程と劇中劇となる第101回聖翔祭のスタァライトのシナリオが一致していることを自覚していると考えられる。

 愛城華恋が「アタシ再生産」をしたことによって戯曲スタァライトには新章が付け加えられた。また同時に、彼女たちの日常は再演のループから抜け出し、時間軸を先へと進めることとなった。日常系のアニメや漫画にしばしば見られる「サザエさん方式」といういわゆる永遠に同じ時間軸をループする時空を抜けることで、学園ものでは避けられない「卒業」というテーマを描かざるを得なくなったのである。

 劇場版における劇中劇と劇の一致というメタ性は、彼女たちが舞台の上で、舞台を終わらせることを宣言するという形で現れる。第100回聖翔祭を終え、進路を考える時期になり、1年前の自分たちのような情熱を彼女たちは失っている。そのような彼女たちの目を覚まさせるために大場ななが開幕したワイルドスクリーンバロックにおいて、はじめて彼女たちは自分たちが舞台の上にいることを自覚することとなる。第100回聖翔祭を演じることで新章を生み出す、すなわち時間軸を先へと進めてしまったからには、彼女たちはその先を最後まで演じきらなければならないのである。舞台少女たちに停滞は許されず、常に次の舞台への情熱が求められる。そして次の舞台へ進むためにはまず今演じている舞台を演じきらなくてはならない。そういった意味で、彼女たちは、次の進路(そして舞台)へと進むために、まず学生生活という舞台を降りなければならないことを自覚している。

 しかしなぜ、進路決定を行うことと、戯曲スタァライトを演じきることがキャラクターたちの中で同時並行で進んでいるのだろうか。その理由こそキャラクターたちの劇中劇と劇の一致の自覚にある。TVアニメ版で愛城華恋は無自覚にも戯曲スタァライトの結末を再生産することで、自分たちの運命をも再生産した。他方、劇場版ではキャラクターたちが劇中劇と劇の一致を自覚しているが故に、戯曲スタァライトを終わらせることで、自分たちの学生生活をも終わらせようとしているのである。それは「私たちはもう舞台の上」という宣言に始まり、愛城華恋の「言わないと……最後のセリフを」というセリフに最もよく表れている。彼女たちは、今自分が舞台の上であり、そしてこの劇を終わらせなければならないと自覚しているのである。同様に「舞台と観客が望むなら、私はもう、舞台の上」という天堂真矢のセリフにも重要な含意がある。すなわちこのセリフは、愛城華恋が解釈した新たな結末の続きとキャラクターたちのその後を望む観客がいるのであれば、自分たちは再び舞台の上でその続きを演じなくてはならない、そして同時に3年生となり、進路決定を行わねばならないという自覚を持っていることを示している。かくして彼女たちは各レヴューを通してレヴュースタァライトという舞台を演じきると同時に、進路決定や各々のアイデンティティの確立を行うのである。すなわち、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』で描かれていることはすべてが舞台の上で演じられている出来事であり、本作においてキャラクターたちは皆舞台の上に立っているのである。

 2点目は、1点目を踏まえたうえで、キャラクターたちが映画を鑑賞している我々を観客として認識している点にある。物語終盤において、愛城華恋と神楽ひかりはいわゆる「第四の壁を破る」という行為を行う。「第四の壁」とは舞台と観客席の間に築かれる想像上の透明な壁で舞台の上と観客席の世界を隔てるものである。愛城華恋が「見られてる……誰かに」と述べ、神楽ひかりが「観客が望んでいるの」と答える時、我々は「観客」としてキャラクターたちに認識されているのだと理解させられる。では、キャラクターたちによって我々が観客であると規定されることは、どのような意味を持つのだろうか。この点についてジャック・ランシエールの論考『解放された観客』から考察していく。

3.ランシエールの演劇論

3-1.従来の演劇論に応える現代演劇の手法

 ジャック・ランシエール(1940〜)は知性や感性の平等を掲げている哲学者である。ランシエールは舞台の役者と観客における感性の平等を『解放された観客』において論じている。ランシエールによれば、従来の演劇論では、観客であることは悪であるとされていた。というのは、見るという受動的な状態は、行動することや知るという能動的な状態とは正反対であるからだ。受動的な状態であることで観客は行動することや知ることといった能力を奪われてしまう。例えばプラトン(B.C.427~B.C.347)は、演じている役者(演じる対象を模倣している役者)を前にした観客が、その役者が演じている当のものを知ろうとすることなく模倣された行為を見るだけで満足するといった、真実から遠ざかった無知な状態のままでいることを批判する。しかし、演劇とは観客なしには成立しえない。演劇を上演するためには、必ずこの悪しき状態の無知で受動的な観客が必要となるのだ。これをランシエールは「観客のパラドクス」と呼び、従来の演劇論によって行われてきた批判はすべてこのパラドクスに収斂されると述べる。

 このパラドクスを受け、観客を無知な状態から脱却させ能動的な参加者にさせるために現代演劇は相反する2つの方法によって演劇の本質、演劇の持つ真の効力を確立しようとした。すなわち、従来の演劇論は演劇とは名ばかりの堕落したパフォーマンスに向けられたものであり、これを克服するために、本来の演劇が持つ力を発揮することのできるような演劇法を確立しようとした。無知な観客という悪を常に必要とし、また無知の状態をそのままにしておく演劇とは演劇ではなく、観客を能動的な状態にさせることこそが演劇であることを示そうとしたのである。

 1つはベルトルト・ブレヒト(1898〜1956)が提唱した叙事的演劇であり、これは観客を登場人物たちに感情移入させるような演劇ではなく、役者が出来事の報告を行うような演劇である。この手法によって観客は舞台の意味を自身の頭で考えざるをえない観察者へと変容させられる。これは客観的に描かれる舞台に対して批判的な目を向けることを求め、批判能力を養うことを目的としている。もう1つはアントナン・アルトー(1896〜1948)の提唱した残酷演劇である。これは観客と舞台の距離を限りなく近づけ、観客に観客としての立場を抜けさせ舞台上の役者と同じ体験へと引き込むという手法を採る演劇である。舞台の劇中世界と観客の距離を取らせようとするブレヒトとその距離をなくそうとするアルトーの理論は一見正反対であるが、両者とも観客に受動的な観客としての立場を捨て、別の役割でもって舞台に関わり、行動を起こすことを要請する。

 この両者の手法をランシエールは否定する。その際ランシエールが繰り広げる議論は、『解放された観客』より前に書かれた論考『無知な教師』における議論を援用している。以下では、『無知な教師』における議論を見ていこう。

3-2.『無知な教師』における議論

 『無知な教師』とは、知性の平等と解放について述べられた論考である。ランシエールによれば、教師や学者の知性と生徒や肉体労働者の知性の間には何の差異もなく、人間には皆平等な知性が備わっている。すなわち年齢や職業にかかわらず人間の知性が持つ能力は平等なのである。

 一般的に教師と生徒の関係というものは、知性を持つ教師が知性を持たない生徒に対して自身の知性を与え、両者の間にある知と無知の隔たりを埋めていく作業であると考えられている。しかしこの構造にランシエールは異議を唱える。教師も生徒も最初から優劣のない同能力の知性を有していて、その上で1つの学問に対峙していると彼は主張するのである。教師がある学問に対してある解釈を持っている時、生徒はその教師の解釈を受け入れて、教師と同じ思考をするのではない。教師の解釈を助けとしてある学問を自分自身の知性で解釈しなおすというような関係性をランシエールは求めている。したがって教師と生徒の、ある学問に対する解釈は同一でなくてもよい。生徒から異なった解釈が提示された場合、教師はさらにそれを解釈しなおし……というように互いに解釈しあう営みが教育であるとした。

 すなわちランシエールは、生徒が知性を持っていないという前提で教師と生徒の間にある隔たりを埋め、教師と全く同一の知性を生徒の中に作り出そうとする従来の教育観ではなく、両者には同じ能力を持った別個の知性があるという前提で両者の隔たりをむしろ肯定し、それぞれの知性によって多様な解釈が生まれることをよしとする。教育とは、生徒が教師から一方的に知性を授けられることで隔たりを埋めていくような営みではなく、隔たりを保持したまま教師と生徒の両者が双方向的に働きかける営みなのである。ランシエールはこのような『無知な教師』における議論の構造を、『解放された観客』では舞台の役者と観客の関係に当てはめる。

3-3.「隔たり」を肯定する演劇論

 ランシエールがブレヒトやアルトーを否定するのは、彼らの理論が舞台を手段として観客に能動的行動を起こすように「教育」するものであるからだ。この両者は、無知で受動的で行動を起こさない観客を、舞台を通じて、能動的な行動をとるように定められた共同体の一員に置き換えようとしているのだとランシエールは主張する。そしてこの受動的な観客を能動的な共同体の一員に置き換えようとする作業は、まさにランシエールが『無知な教師』において批判していた、生徒の無知を教師の知に置き換えるという作業と同じ構造である。

 『無知な教師』において批判されている教育論では、生徒の無知を教師の知に置き換える作業は、それが完全に達成された時にはもう教育は必要が無いと言われる。同様にブレヒトやアルトーの手法では、舞台は役者や舞台監督と観客の間にある隔たりを埋め、同一の共同体へと組み込むための道具であり、観客がその共同体の一員となった暁には最早舞台は必要ないのである。この時、教育に用いられるテキストも舞台も隔たりの象徴であり、自身を消すために、すなわち隔たりを解消するために用いられる道具である。これに反してランシエールは舞台を何者かに属す道具ではなく独立した第三者として扱おうとする。

 舞台と舞台の監督や舞台役者、そして観客の間にはそれぞれ隔たりがある。そして舞台は監督や脚本家が自身の思想を他者へと伝えようとするための道具ではない。脚本や演じられた舞台は、それらが他者へと提示された途端に創造主の手を離れる。脚本や舞台は創造主のものではなく、他者との隔たりの間に存在する媒介物なのである。したがって、観客は舞台を通じてその創造主と全く同じ知性や感性を手に入れようとする必要はない。すなわち、受動的な観客から能動的な共同体の一員とならなければならないという叙事的演劇や残酷演劇の目的に我々は従う必要はないのである。

 提示されたテキストや舞台はその創造主の解釈の提示であるが、創造主とそれ以外の者には隔たりがあるため、提示されたものを我々は提示されたままに受け取ることはできない。しかしだからこそ我々は誰であれ提示されたものをそれぞれ自分の中で解釈しなおすことができるのだ。ランシエールは舞台を、観客と役者といった役割に優劣はなく、ただ平等に隔たりを持つ他者に対して解釈を提示し、そして他者から解釈しなおされるという、コミュニケーションを媒介するものとしてとらえていたのである。専制的な創造主の解釈に縛られることなく、誰もが平等な解釈者として解釈することができるという状態が観客の解放であるとランシエールは主張した。

図 各演劇論の図解(筆者の資料をもとに円あすかが作成)

4.劇場版における第四の壁

 前章では、観客の解放のために他者との「隔たり」を肯定し、むしろそれをなくそうとする動きを批判したランシエールの論について述べた。そのような「隔たり」を解消しようとする理論の中でも有名なものとして叙事的演劇のブレヒトが提唱した「第四の壁を破る」というものがある。ブレヒトは第四の壁を破り、観客へと劇中の出来事を説明するという形で役者が観客の世界へと入り込むことで、観客により能動的に舞台を見るように働きかけた。すなわちブレヒトは観客が能動的な観察者となるよう、観客が劇中世界に感情移入や没入をせずに劇中世界での出来事を批判的に見るようにする工夫(これを異化効果という)を施した。このように観客に劇中世界との距離をとらせることで役者、監督、そして観客の隔たりを埋め、同じ1つの舞台を見る共同体を作ろうとしていた。いわば役者が教師のような立ち位置となり、観客に対して問題提起をし、ある特定の解釈、感性の方へと導こうと「教育」するのである。

 なお近年では映画やドラマ、アニメにおいてもこの手法は多用されているが、必ずしもブレヒトのような演出意図がされているわけではないと考えられる。第四の壁が破られ自分が劇中世界で登場人物たちと共に生きているかのような効果が狙われていることが多い。またこの作品がフィクションであることを自ら言及することで喜劇的効果やシュールさを狙うというようにコメディ作品において第四の壁が破られることも多い。ともあれ、上記の「第四の壁を破る」例はいずれも隔たりを埋めようとするもので、ランシエールの理論とは相容れないものである。しかし『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』において用いられる「第四の壁を破る」行為は、上記に挙げた例のいずれにも当てはまらない。

 通常、第四の壁とは1度破ってしまえばそこでその行為は完結する。基本的には第四の壁とは1つしか存在しないからである。しかし『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』はメタ構造を有している。すなわち劇中劇である戯曲スタァライトと『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』でのキャラクターたちのシナリオが一致しているという劇中劇と劇の一致の構造である。さらに劇場版においてキャラクターたちは劇中劇と劇の一致を自覚していて、その上で舞台を演じている。このような構造を有する『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』において第四の壁を破るとはどういうことなのか。

 愛城華恋が「見られてる……誰かに」と述べ、神楽ひかりが「観客が望んでいるの」と答える時、我々は映画館のスクリーンの布もしくは3次元と2次元の境界線という第四の壁を突破する。これにより我々は愛城華恋をはじめとする劇中キャラクターたちと同じ世界に存在していると感じることができる。しかし、キャラクターたちはその世界の中でさらに舞台を上演しているのである。そして我々は決してキャラクターたちと共に舞台の上に立っているわけではない。あくまで我々はキャラクターたちと同一の世界の中で上演されている舞台の観客席にいるのである。それは、劇中劇と劇の一致をキャラクターたちが自覚しているが故に、劇場版の内容全体が舞台の上で演じられているものであるからだ。実際、愛城華恋が映画の終盤において「演じきっちゃった、レヴュースタァライトを」と述べた時、我々は自分たちが見ていた舞台は『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』そのものであったことを理解するのだ。ここにもう1つの第四の壁が存在している。スクリーンの布という第四の壁を破り作品世界へと入った後に、キャラクターたちが立つ舞台と観客席を隔てる第四の壁が新たに我々に突き付けられることとなる。

 劇中劇と劇の一致を、劇の内で進行する進路決定を行い聖翔祭のスタァライトを演じる愛城華恋たちのストーリーと、劇中劇の内で進行する聖翔祭のスタァライトのキャラクターたち(フローラやクレール)のストーリーの一致であるとするならば、我々は第四の壁の突破により「劇」の内に身を置いたことになる。しかし、愛城華恋たちの存在する次元と同世界の劇の内に我々は身を置くが、愛城華恋たちの立つ「劇中劇」すなわち上演されている舞台の上には身を置けないという点で、もう1つの第四の壁がそびえているのである。つまり、第四の壁を破ることで新たな第四の壁をより際立たせているのである。我々は愛城華恋たちの演じる『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という舞台を観劇している観客であり、愛城華恋たちと同じ次元の世界にいながら、彼女たちとは隔たりがあるということを知らされるのだ。この演出効果はブレヒトなどの先に挙げた例のいずれにも当てはまらない。劇中世界と観客の距離を縮めつつも役者と観客の隔たりをより際立たせているからである。そしてこの隔たりの確立は、ランシエールの思想と一致する。したがって『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は、ランシエールが批判する「第四の壁を破る」という手法をあえて用いることでランシエールの思想を体現し、「観客の解放」を成し遂げる極めて特異な作品なのである。

5.隔たりと解放

 我々は『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という舞台の観客であると規定され、隔たりを再認識した。では、本作において隔たりの確立が持つ意義は何だろうか。ランシエールが隔たりを肯定したのは、隔たりを埋めようとして単一の方向性へと導かれる集団が作り出されることをよしとしなかったからである。ランシエールはある舞台やテキストを媒介として多様な解釈が飛び交い、さらにまた解釈しなおされる営みをよしとした。隔たりがあるからこそ多様な解釈が生まれるのである。

 そしてこのような営みは、実は『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の作品内においてキャラクターたちも行っているのである。TVアニメ版においては愛城華恋が戯曲スタァライトの原著を読み、今まで観劇してきた戯曲スタァライトとは異なる新たな結末の解釈を提示する。劇場版では、学園生活(すなわち『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という舞台)で得たものを糧にキャラクターたちがそれぞれのポジションゼロを見つけていく過程がレヴューで表現される。また劇場版パンフレットにおけるキャラクターたちの脚本への様々な書き込みもこれに当てはまるだろう。

 これらの書き込みのうちどれが最も正しい解釈かだとか、どのキャラクターが主役だとかいう価値観は劇場版において通用しない。ここにおいてどの書き込みも正しく、どのキャラクターも主役なのである。劇場版において大場ななが発する「これはオーディションにあらず」というセリフにはそのような含意がある。すなわち、いまや勝ち負けや優劣といった価値観に左右される世界ではないということを端的に告げているのだ。監督や脚本家によって示された唯一のスタァライトを最もよく演じることのできる役者が選ばれるというような、監督や脚本家と役者の間に優劣があるような関係ではなく、監督や脚本家が提示した解釈をそれぞれが解釈しなおしてそれぞれのスタァライトを演じていくという行為が求められているのである。すなわちここでは「観客の解放」だけでなく、ランシエール風に言うのであれば、「役者の解放」をも成し遂げているのだ。

 さらに劇中劇と劇の一致によって、役者の解放は聖翔祭の脚本にも影響を及ぼしている。第100回聖翔祭の脚本では、塔に囚われたクレールはフローラにより助け出され、塔から解放される。また第101回聖翔祭の脚本における7人の女神たちが塔を降りる様や「今こそ塔を降りる時」というセリフは解放の象徴だろう。同じ1つの塔からそれぞれが別々に異なった方向へと降りていく様は、解放された役者としてそれぞれがそれぞれの解釈を提示する劇場版のストーリーと一致する。したがって、劇場版では隔たりを確立することによって劇中劇である戯曲スタァライトの女神たちを解放し、劇中の役者たちを解放し、そして我々観客をも解放しているのである。常に自身の知性や感性で解釈しようとする解放された我々にとって、提示された舞台やテキストは解釈されるべきものとして我々の前に現れる。同様に、愛城華恋たちキャラクターを含む解放された我々にとってスタァライトとは降りるべき塔である。降りるべきものとしての1つの塔に我々は登り、そして別々に降りていくのだ。

 他者から受け取った解釈を自身の知性を用いて自分の中の経験と照らし合わせて解釈しなおすといった、相手との解釈の応酬という対話をし続けることで、特定の画一的な解釈から解放された我々は自分自身を再生産し続けることが出来るのだろう。すなわち隔たりの確立とは、本作のキーワードである再生産に必要不可欠なものなのである。

 実際のところ、「観客」や「役者」といった肩書には大した意味は無い。多様な解釈を許すという観客の解放や役者の解放が達成されたとしたら、もはや「観客」や「役者」といった肩書は意味をなさない。というのは、誰もがそれぞれ解釈することが可能であるが故にそれぞれの肩書の間に格差はなく、ただ他者との隔たりが存在するだけであるからだ。したがって現実の肩書に関わらず、他者の解釈を受け取る時は誰であれ観客であり、自身が解釈を提示する時は誰であれ役者なのだ。観客や役者の間に優劣はなく、あるものはただ隔たりのみである。それ故、戯曲スタァライトを新たに解釈して次へと進んでいく彼女たちの生きざまは、今この論文を執筆したり読んだりしている我々にも通じる。スタァライトを受け取った人間は誰であれ(スタァライトにハマった人はもちろん、スタァライトが肌に合わなかった人であっても、自分には合わなかったという解釈をしたという点において)皆今までと異なる次の舞台の上に立っているのだ。

 本論文は、筆者が『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という塔から降りてどこへ向かったのかを示すものだ。また本論集は『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を取り巻く解釈の営みに大きな意味を持つものとなるだろう。舞台をはじめとした文芸や芸術などあらゆる文化産業は、人々が互いの隔たりを尊重し様々な解釈の対話を行った結果として再生産され、発展し続けるのだと筆者は考える。

参考文献

  • ジャック・ランシエール『解放された観客』梶田裕訳、法政大学出版局、2013、pp.3-30

  • 同『無知な教師』梶田裕、堀容子訳、法政大学出版局、2019

著者コメント(2022/10/10)

 ぷらたもんです。なんとか書き終わりました。私は舞台の専門家でもなく、ランシエールを詳しく研究しているわけでもないので、いろいろと間違った解釈をしているかもしれないですがお手柔らかに見ていただけると幸いです。ランシエールといえば、これは絶対に偶然なのですが、『解放された観客』が叢書ウニベルシタスという法政大学出版が出している翻訳学術
本のシリーズの999 番にナンバリングされていることにすごくエモくなってしまいました。ちなみに記念すべき1000 番はデリダの『エクリチュールと差異』で、これは過去にウニベルシタスで出版されていたものの新訳版です。デリダ再生産!
 最後に、今回こういった企画を立ち上げてくださったさぼてんぐさん、りーちさん、その他運営に関わっているすべての方々にお礼を申し上げたいです。劇場版スタァライトを見てキラメキに目を焼かれ、とにかく何かがんばろうとやる気だけ満ち溢れていたものの、同人誌活動などしたこともなく、というかそもそもそれが選択肢にもなくただやる気を持て余していた私にとって今回の企画はまさに青天の霹靂でした。スタァライトから受け取った情熱を形にする機会を設けてくださって、本当にありがとうございました。

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